兵庫津の道①

Dscn6389 ←JR兵庫駅内改札口横。後で分かったことだが、JR和田岬駅は平日の朝夕しか使用されていない。土日は使用されていない。無人駅なので、でられることはできる。三ノ宮駅より西はあまり降りない。兵庫駅前は結構にぎやかだったので、少々驚いた。

Dscn6390 ←駅員さんに「能福寺」の地図をもらって歩き出す。建物に囲まれて、見えにくいのだそうだ。兵庫駅前にある表示板。

能福寺へは、徒歩10分ぐらいだそうだ。

Dscn6392_1 兵庫大仏(能福寺境内にある)に関する記事が新聞紙面に最近2つ載っているのを見た。なんでも、奈良、鎌倉と並んで、三代大仏といわれるそうだ。前者は有名だが、兵庫大仏の存在は、最近知った。

六波羅太政入道持経者(じきやうしゃ)千人集めて、津の国和田と申す所にて供養侍りけり。やがてそのついでに万燈会(まんとうえ)しけり。夜更(ふ)くるままに、燈火(ともしび)の消えけるを、各々点(とも)しつぎけるを見て

(862)消えぬべき 法(のり)の光の燈火を かかぐる和田の 泊(とまり)なりけり(西行)

※末法の世に、滅しようとする法のをともしつぎ、あかあかとかきたてる和田の泊りの法会であったことだ。

◇承安二年(1172)3月15日、後白河法皇が福原で千僧供養を3日間行われ、同年10月15日、平清盛が摂津・輪田浜で千檀阿弥陀供養を行った(『百錬抄』。時に西行55歳。 万燈会(まんとうえ)=たくさん(万)の燈火をともして行う法会。

■すみれー第188話・うまくいくんやろか?-

「・・・高梁に一泡ふかせるっていっとるやないか。義人とかいう餓鬼を呼び出して、高梁をあおって、写真かなんかにおさめて、ゆするんや。義人に一億だすというとるんや」「そないに上手くいくやろか?」「あいつのこっちゃ、一億なんて金ださへんわな。でも、一千万はだしてもらわんと。これ、おまえ、もっときぃ」 重之は、色の浜とは言ふにやあるらんと書かれた一方の貝を雅史に渡した。

「ほんまに、そないに上手くいくんやろか?・・・・」 雅史はつぶやいた。

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観音寺

定信の入道観音寺に堂造るに、結縁すべき由申し遣はすとて     観音寺入道生光

(858)寺造る このわが谷に土埋めよ 君ばかりこそ 山も崩さめ

返し

(859)山崩す そのちからねは 難(かた)くとも 心だくみを 添へこそはせめ

Dscn6468_1 観音正寺の境内(きぬがさ山)から安土町石寺、五個荘方面をのぞむ。遠く、西行の祖先・俵藤太の伝説(=むかで伝説)がある「三上山・みかみやま」をのぞむことができる。

※観音寺=近江国西国33番札所説と京都東山区今熊野観音説とがある。

■JR吹田駅(8:28、片道:1280円)→高槻・乗換え→JR安土駅・・やぐら時計・・沙沙貴(ささき)神社(蒲生地方の古代豪族『沙沙貴山君』と、近江源氏『佐々木氏』の氏神)・・安土町立図書館(前に、『右→伊勢』と書かれた石碑があった。まっすぐ行くと、鈴鹿峠に至るようだ。)・・安土町石寺楽市(日本で最初の楽市が開かれた場所。観音正寺の参道入口)・・・・・観音正寺(西国33ヶ所巡り、第32番札所、432.7m)・・観音寺城跡(昼食)・・強い雨が降ってくる・・桑実寺(あじさいがきれいだった。入山料300円)・・・安土城天主・信長の館、安土城考古博物館など(時間の関係上、中へは入らなかった。)・近江風土記の丘・・・安土城跡・・・セミナリヨ跡・・・音堂川の湧水(つめたくておいしかった。)・・JR安土駅→→高槻→吹田

■すみれー第187話・約束ー

「色の浜って?」「福井県にある浜や」「浜って?」「なんも知らんやっちゃな。 浜ゆうたら浜やがな。・・海岸!」「・・なんで、貝なんや?・・・・重ちゃん、水、飲むか?」「そんなもんいらんわ。ええか、雅史、貝合わせの貝ゆうたらな、これで合わせて遊ぶんやけど、・・まぁーーええわ、そないなことおまえに言っても始まらん。これは約束や」「約束?」

「そうや、約束や。今、喋ったことは今後、いっさい喋らんという約束や。こうやって貝を合わせるやろ。 ぴったりと閉じる。秘密や。貝の秘密、・・約束や」「??ほんで、なにを約束するんや??」「ほんまに、おまえは鈍(どん)というか・・」。

重之は、あきれかえった顔をみせた。

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新開地

(862)消えぬべき法(のり)の光の燈火(ともしび)をかかぐる和田の泊(とまり)なりけり(西行)

※末法の世に、滅しようとする法の燈火をともしつぎ、あかあかとかきたてる和田の泊りの法会であったことだ。

Dscn6296 ←阪急と神戸高速は三宮で相互乗り入れをしている。有馬温泉口へ行くには、新開地駅で乗り換える。→Dscn6295

■治承四年(1180)6月2日、平清盛は突如、都を、自分たち平氏一門の地盤である福原へ遷都した。新開地の駅から徒歩5分ぐらいの所に、「厳島神社」がある。

そんなことより、・・・・。お洒落なイメージで観光客を集める神戸の端っこに、安っぽくて猥雑(わいざつ)で少々危なかしくて、それでいて妙に懐かしい街がある。それが、「新開地(しんかいち)」である。戦前は西の浅草と呼ばれたが、今はうらびれた雰囲気がある。簡易宿泊所、怪しげな酒場や風俗店や大衆演劇場が、昔ながらの床屋に古本屋、串カツ屋なんかと入り交じって軒を並べている。

陰影をそれぞれ宿し新開地荒廃の跡夢の跡かな(多吉)

■すみれー第184話・しみー

「あぁ、年取ったら体にでてくる黒いしみさ。しみだけじゃない。たるみとか、しわだとか、それが連中の体のいたるところに。しみだけじゃない。 ぷっくりと張った腹、それに続くやせほそった足。それを見ると、俺は勝ったと思ったね。 連中がまとっていた名誉、常識、世間体ってやつにね。でもいいんだ。連中は、俺のこと汚れているなんて一遍だって言わなかった。羊のように従順に抱かれただけだ。 <あっ・・>って年ににあわない声あげて、はてただけさ。 かわいいもんだぜ。でもな、許せない、あいつ。 高梁は、高梁は、汚れすぎてるっていったんだ。 お前には一千万なんて金、貸せないって。義人には、あののっぺりとしただけの餓鬼には一億円だせてもな、・・俺には出せないって・・・。ちくちょう、俺のたったひとつのなけなしのプライドが・・・・」。

重之は、ぐいっとビールを飲みほした。

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相撲発祥の地

重きいはをももひろ千(ち)ひろ重ね上げて砕くや何の報いなるらむ(西行)

※重い岩をももひろも、千ひろも山のように重ね上げて、それで体を砕いている。ああ、これは一体、何の報いなのか、怖ろしいことである。

■「重きいはを」は、黒縄(こくじょう)地獄を取り扱った絵の怖ろしさを詠ったものである。『往生要集』によれば、殺生の上に盗みの罪を重ねた者が堕ちる地獄である。猛火と熱鉄の地獄である。熱鉄の縄が肉を焼き、骨をこがす。罪人たちは鉄を背負っては山に追い上げられて行く。下には鉄を焼く火焔が大きく口を開けており、やがて罪人たちは、そこに落ちて煮られる。この責苦は千年も続く。ここにもまた、別の地獄が設けられている。時折、獄卒どもの声が聞こえてくる。--お前は前世の悪業(あくごう)のために地獄で焼かれるが、誰もお前を救うことはできない。妻子兄弟も、親族縁者も、気の毒だが、お前を救うことはできない。

■近鉄・当麻寺駅から当麻寺への途上の道に、「葛城市相撲館・けはや座」がある。この館の傍をいままで何度となく通ったが、館の中にはいったのは今回が初めてであった。野見宿禰(のみのすくね)當麻蹶速(たいまのけはや)の対戦図として下のように書かれてあった。

Dscn5016 「日本書紀によると相撲の始まりとして野見宿禰と當麻蹶速の力比べが書かれております。 第11代天皇垂仁天皇の時代に大和国の當麻の邑に勇敢で力の強い男がいました。その人物の名は當麻蹶速といい生まれつき力が強く、手で角をへし折り、曲がった鉤(かぎ)も伸ばしてしまうほどです。 彼は、常日頃から、『この世で自分と互角に力比べが出来る者は存在しない、もしそのような人物がいたらぜひ、その人物と力比べを行いたいものだ』と豪語していました。天皇はその話を知り、家臣に「誰か蹶速と対等に戦える人物はいないか?」と尋ねると家臣の一人が進み出て『出雲の国に野見宿禰なる人物がおります、この人物を呼び寄せ蹶速と戦わせれば如何でしょうか?』 天皇は大いに賛成し、出雲の国から野見宿禰を呼び寄せ、垂仁7年7月7日宿禰と蹶速の対戦が始まりました。 

宿禰・蹶速それぞれ、足をあげて蹴り合いましたが、宿禰が蹶速のあばら骨や腰骨を踏み折って殺してしまいました。これにより天皇は、蹶速の領地を奪い、宿禰に与え、その後、宿禰はこの土地にとどまり、天皇に仕える事になりました。 當麻蹶速は高慢なようですが、実際は都ずれしない素朴な野性的な性格のため、朝廷の人々と相いれなかったと想像されます。そのため、当地の人々からかえって親しみをもたれました。 石塔は田畑の中に鋤(す)く事なく現在まで貴重な史跡として残されております。勝者必ずしも優ならず、時には勝機と時運に恵まれず敗者になることもある。勝者に拍手を送るのはよい、しかし、敗者にも一菊の涙を注ぐべきではないか。このような思いから昭和12年に地元の有志と好角家によって蹶速塚の隣に記念石碑が建立されました。

■すみれー第102話・ゴリラー

メビウスは、午前3時に閉店した。すみれから元の名前に戻した重之は、カウンターの中で、ぎくしゃくしたなんとなく気まずい時間を過ごした。

店を出た時、後ろから声がした。「よう、ちょっと寄らへんか?」振り向くと、店の従業員である健治が立っていた。 「どこに行くの?」「すぐそこや。四条通り、渡って歩いて4,5分のとこや」 「あいつ、やな奴やろう?」健治が言った。「あいつって?」「幹!! ゴリラみたいな奴」「ゴリラ? アハハハハ・・・・・」「なっ、おまえだってそう思うだろ。あいつ、あれでナルシストなんやで。いつも鏡持ってて、暇さえあればポケットから鏡とりだして、うっとり。アホや。ごっつい体で、ごっつい顔。なにかといえばガオガオ。アホやで」「そのガオガオって何?」「・・感じ分かるやろ。人に向かってたえず吠えとる。吠えん時は、鏡見ていつもうっとり。アホみたいやから、あまえはゴリラやいうたら、えらい怒ってな」「そら、怒るやろ」「ガオガオ、ボケって言うたら、追いかけまわしやがって。ほんまにあいつは狂暴なボケやで」。

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冬の鞍馬

世を遁(のが)れて、鞍馬(くらま)の奥に侍りけるに、筧(かけひ)氷りて、水まうで来(こ)ざりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるを聞きて、よめる

(571)わりなしや氷る筧の水ゆゑに思ひ捨ててし春の侍たるる(西行)

※道理に合わないことだな。春の花の事も思い捨てて鞍馬の奥に世を遁れたのに、筧の水が氷って流れて来ないため、春が待たれるとは。

DSCN5296 鞍馬に世を遁れて最初の冬の経験が詠まれており、出家して間もない頃の詠か。◇わりなし=物事の筋道が立たずどうにもならないこと。

←叡山鉄道・鞍馬駅

▲出町柳から叡山電鉄に乗って車窓を眺めていたら、比叡山が目に入ってきた。比叡山人工スキー場は廃止になってしまったのだが、スキー場あたりに雪が積っていた。(寒いはずだ。)と思っているうちに、貴船あたりの森にうっすらと雪が積っていた。鞍馬駅の屋根に雪が残っていた。▲新西国33ケ所札所に「鞍馬寺」が入っているが、昨年11月29日に朱印状を書いてもらっている。鞍馬寺の裏は牛若丸に縁のある古跡で、貴船神社に通じる道がある。

▲巡礼に出かける前は、禊と称して風呂に入る。水ではなく、普通のお湯で、冬の風呂はことのほか心地よく長風呂になり、巡礼など、どでもよい気分になり・・、出かける時刻は午後2時を過ぎてしまった。おおあわてで電車に乗ったが、鞍馬に着いたのは、もう4時をまわっていた。出町柳まで引き返して、ぐるっとまわって嵐山の方へ行った。

■・・阪急・吹田(PM2:30)---京都線ーーー阪急・河原町=京阪・四条ーー出町柳=叡電・出町柳ーー鞍馬(4:10)==鞍馬寺==鞍馬ーー出町柳・・・・・・・・・・京福・嵐山=天竜寺=落柿舎==二尊院==野宮神社==渡月橋===阪急・嵐山ーーーー吹田(PM8:00)

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伯母が峯②

(1107)をばすては信濃ならねど何処(いづく)にも月澄む峯の名にこそありけれ(西行)

DSCN3964

▲日曜日になると、受けもっていた4年の児童が遊びに来て、川上村の名所・旧跡を案内してくれた。不動窟あり金剛寺あり、なにやら城跡みたいな所と、なかなか楽しかった。ところで、「奈良の街道筋(下)-青山茂著」を読んで驚いている。後南朝の存在だ。その城跡みたいな所が、どうやら御所跡かもしれない。吉野哀史の一つに後醍醐天皇南朝があるが、それで終りではなく後南朝というべき時代が存在したと書かれているからである。

▲抜粋すると、「・・・1392年、足利義満の和平提案で南北対立を捨てた後亀山天皇は京都におもむき、神器を北朝の後小松天皇に譲って、南北両朝合一が実現した。以後は南朝から交代で皇統を継ぐというのが和議の条件であった。だが、この誓約は後小松天皇からその皇子の称光(しょうこう)天皇への譲位(1412年)によって早くも破られてしまう。亀山・後宇多天皇に始まり後醍醐天皇が継承して以後、南朝をたててきた大覚寺統の皇統は、北朝・持明院統のもとで消滅寸前の危機に追いつめられたのである。 南朝の遺臣たちは危機感を深め、各地で決起する。後亀山天皇の皇孫小倉宮(おぐらのみや)は伊勢の北畠をたより、そのもとに走って挙兵、以後しばらくは一進一退の戦乱が断続する。その混乱の火中の嘉吉元(1441)年、赤松満祐(みつすけ)将軍義教(よしのり)を暗殺、その機に乗じた南朝遺臣が皇居を襲って神璽(しんじ)神剣を奪って第二小倉宮円満院を後南朝の新帝として擁立、吉野川上の奥地にたてこもって南朝再興をはかった。南朝方には越智(おち)、楠木の各党や十津川、川上の郷士(ごうし)らが呼応したが足利軍との戦に敗れ、円満院は楠木正秀らとともに戦死、後南朝の勢力は衰運を早める。 南朝の遺臣たちは円満院の弟で近江の甲賀郡の山里に隠棲していた万寿寺宮尊義王(まんじゅじのみやぎおう)と二子、尊秀王(そんしゅうおう)と忠義王(ちゅうぎおう)の二息子を川上村の奥地、三之公谷(さんのこだに)の黒木の仮御所に迎えて神璽(しんじ)を帯し、即位の式をあげた。三之公谷は柏木からさらに吉野川の源流を遡り、入之波(しおのは)から北の支流の谷に入った文字どおりの秘境である。南朝の正統を継いだとはいえ、神璽を秘匿して北朝側に奪われないために隠れ住んだという状態であった。

▲やがて、一の宮の尊秀王が自天王(じてんおう)と称して神璽を受け継ぎ、三之公を出て柏木から南の伯母が峯を越えて上北山郷の小橡(ことち)の大河内宮(おおこうちみや)に皇居を遷し再興の機をうかがうことになる。二の宮の忠義王は征夷大将軍として柏木の神之谷(こうのたに)に居館を構え、河野御所(こうのごしょ)と号された。時いたれば南朝再興を実現しようという背水の布陣であったし、各地からは朝賀拝礼のために馳せ参じる遺臣たちが千人を越したと記録に残されているほどであった。

▲ところが、思わぬ破綻が身内からおこる。さきに将軍義教を殺害してその後、討ち取られた赤松満祐の家臣たち30余人が主家再興の条件に神璽を奪回することを誓い、ひそかに後南朝の両宮に偽り仕えてその機会を狙っていたのである。長禄元(1457)年12月2日に申し合わせた赤松の残党たちは雪の夜陰に乗じて二つの宮殿を襲撃した。同志と信じていた者たちの寝返りに防戦の甲斐なく全滅、山峡の雪は血で染められる。自天王の首級と甲冑を手にした赤松の残党らは京都への道を急いだが、急を聞いてかけつけた川上の郷民たちは彼らを包囲、残党たちから宮の首級と甲冑を奪い返した。包囲された残党が自天王のお首を雪に埋めてかくしたのだが、噴き出す血潮によって見つけることができたのだと、いまも地元で語り継がれている。純白の雪のなかからふつふつと噴き出す18歳、後南朝の「南帝」のまっ赤な血。秘史の終幕にふさわしい凄惨な場面ではないか。

▲宮の首級は郷民たちによって河野御所の横の金剛寺に葬られ、甲冑は御神体として祀られ現在にいたっている。そして、このときに宮のために生死をかけた郷民たちの子孫は「筋目(すじめ)」家とよばれ、惨劇のあった翌長禄二(1458)年2月5日、その霊前で「御朝拝式(おちようはいしき)」を営んで南朝の世をしのび後南朝の帝(みかど)たちの霊を慰めて以来現在まで500年間、毎年「御朝拝式」を営んでいる。2月5日は万寿寺宮尊義王の命日に当たる。

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千種(ちぐさ)

千種(ちぐさ)の嶽(たけ)にて

(1115)分けて行く色のみならずこずゑさへ千種の嶽は心染みけり(西行)

DSCN5114 ※分けてゆく千草の色のみでなく、千種の嶽では木々の梢までもが色々に紅葉し、心もその色に染まったように感じられることだ。

◇色=千草の色。「染む」の縁語。 ◇こずゑ=ここは梢にある葉。「枝」に比し、西行は「梢」の語を愛用。

▲「千種の嶽」とは、奈良県下北山村にある第30番靡=千種岳である。千種の花が一時に咲く所として、この名がある。

▲千種といえば大阪出身の女優・八千草薫さんを思い浮かべる。おりしも、今朝の朝日新聞は、「戦後60年、郊外の60年」と題して1ページの特集を組んでいる。抜粋すると、「・・・・競争のゴールは、団地から脱出し、郊外のニュウータウンに一軒家を建てること。団地は、『幸せ』を大量生産する核家族の工場だった。夢を実現した時、家族の目に映った風景は何だったのか。作家の山田太一さん(71)は75年ごろ、多摩川のはんらんで家を失った東京都狛江市の人たちに話を聞いたことがある。『我が家の死に目に会えなかった』『部屋中にビールをまいて、さよならと言ったんです』 家を、まるで生き物のように語ることに、山田さんは気付いた。意地悪な見方かもしれないが、家族関係が薄くなった分、家そのものに愛着を持つのでは、と感じた。この取材は77年、ホームドラマの金字塔「岸辺のアルバム」となって結実する。▲八千草さんは、このドラマの主役だった。その前年に、八千草さんは理想の母親のNO.1に選ばれる。その理想の母親が、「岸辺のアルバム」では、浮気をする。郊外の一軒家を建てるという夢を実現した時、家族は惑った。ドラマのラスト近くで、国広富之演じる息子の繁が、家族の欺瞞(ぎまん)に耐えきれず、すべてをぶちまける。▲多摩川のはんらんで流されゆく家を眺めながら、あらためて家族とは何なのかを問いかけた。▲千種の嶽のある南奥駈道は、多くが岩山が連なる道だが、やわらかな草地もある。「岸辺のアルバム」のラストにかぶさった、ジャニス・イアンの歌声を思い起こし、素足になって踊ってみた。「踊りましょう、踊りましょう。そして、狂いましょう。」

■すみれー第41話・稚児之草紙ー

門をくぐり、しばらくの間があった。「さっきの川は? 万千代川って?」

「昔、上醍醐の一院に住職の世話をする稚児がいた。名を万千代といった。女人禁制の諸院の僧が、この美少年に心を寄せた。やがて、万千代を奪いあう争いごとが僧たちの間で起こった。少年はある夜、清浄な川に身を投じて苦悶を流した。土地の人は、『マンジョ川』と呼んでいる。」

孝志はぶっきらぼうにそう言うと、遠い昔を見るような目をした。「万千代川。昔、似たような話があった」 孝志は、ぽつりとそう言った。

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小池ノ宿

小池と申す宿(すく)にて  小池ノ宿=第31番小池宿(奈良県下北山村)

(1108)いかにしてこずゑの隙(ひま)もを求め得て小池に今宵月のすむらん(西行)

DSCN5025 ※どのようにして鬱蒼と繁った梢の隙を求めることができて、小池の宿に今宵月が澄んだ光を宿すのであろうか。

←西行物語絵 巻第二、尾形光琳筆・江戸時代

▲昨日から前鬼(大峯)の裏行場=「三重の滝」に行く予定だったが、同行人の体調不良のため、とりやめた。それで、今日は、西国霊場第21番札所・神呪寺(かんのうじ、甲山大師へ行った。▲阪神電車・梅田駅で切符を買おうとした時、先日の日本シリーズの(野球の)阪神のあまりにもふがいない映像を思い出して、阪急に変更しようかと思った。しかし、高校の時、阪神百貨店地下の食堂街(揚げた中華麺にとろみをつけた具をかけて食べる形のヤキゾバは、ここで初めて知った。)にお世話になったこと(高校の時は食いもんしか興味がなかった。)を思い出して、やはり阪神電車で行くことにした。 ▲甲山(かぶとやま)は標高(309m)はないものの、形が美しく、見晴らしもよく、遠く大阪湾まで見えた。 ▲西宮から梅田に出た。「舟運まつり」に行こうと思ったが、時間が時間だけに迷った。せめて行くだけでもと思いなおし、淀屋橋で下車した。会場に着くと、ちょうど終わったところで、ジャズ・シンガーの岩井さんは車に乗り込むところだった。躊躇したが、思い切って岩井さんに声をかけた。「狸です」。きょとんとされていたので、「多吉です」と言うと、驚いた顔をされていた。(「化けるのを忘れてすみません」と言おうとしたが、声にならなかった。)▲家に帰って、そのことを嫁さんに話すと、「顔(=素顔)みられたんなら、もう返事、けーへんわ」。がっくり!!

■すみれー第40話・三宝院ー

三宝院は門跡寺院で、表書院・宸殿など十数棟の建物が一群をなし、桃山時代の遺構を伝えている。表書院、唐門が国宝に指定されている。庭園は、慶長三年(1598)の醍醐の花見に際して、秀吉が自らの縄張りにより、大幅に改修した。完成は、秀吉の死後、寛永年間(1624~44)である。

義清は腕の時計を見た。午後6時を数分過ぎている。てっきり中へ入ることができないと思った時、孝志の手が軽く招いた。それに誘われるようにして二人は唐門横の門に近づき、三人は中へと入っていった。

名高い枝垂桜はすでに緑の葉を生い茂らせ、きれいに掃き清められた四角い前庭が眼前にせまっていた。義清はふと前方を見ると、柿色の袈裟を纏(まと)った僧侶が一人庭の片隅に立っていた。僧侶に導かれるようにして、三人は中へ入っていった。

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屏風立(びょうぶだて)

行者還(がへり)・稚児泊(ちごのとまり)、続きたる宿(すく)なり。春の山伏は屏風立(びょうぶたて)と申す所を平らかに過ぎんことをただ思ひて、行者・稚児泊にて、思ひわづらふなるべし ◇行者還・稚児泊=58番靡(奈良県天川村)と60番靡(下北山村)。 ◇春の山伏=春三月、熊野から大峯入りをする山伏。天台宗聖護院派(本山派)の山伏。春峯と秋峯とがある。 屏風立=大峯山中にある。 ◇平らかに過ぎん・・・・=平安無事に通過できること。屏風を立てたように「垂直」な難所と「平」を意識した用語。 ◇行者=修験者ではなく、「行者還」のこと。

DSCN5080 (1117)屏風にや心を立てて思ひけん行者は還り稚児は泊まりぬ(西行)

※そそり立つ屏風立岩に、行者は還り、稚児は泊るというその難所の名を思い、無事通過できるよう心を奮い立たせたことだろう。 ◇屏風にや・・・・=「屏風」と「立て」は縁語。「心を立て」は決心すること。 ◇行者は還り・・・・=地名を詠む。

▲江戸の徳川幕府は2つに分けるのが好きというのか、力を分散させるために、茶道でも本願寺でも修験道でも2つに分けるという政策をとった。修験道の2つとは、1つは醍醐寺(当山派)、もう1つは、上に書いてある天台宗聖護院派(本山派)である。聖護院といえば、聖護院かぶらが有名だが、門前近くには聖護院八橋総本家がある。創業(1689・元禄2年)4年前に没した琴の元祖八橋検校をしのび、琴型の干菓子を八ツ橋と称して参道にあたる聖護院の森で売ったという。京を代表する銘菓の一つだったが、最近では生八ツ橋の方が多く見られる。▲聖護院は門跡(もんぜき)寺院で、門跡というのは江戸時代まで代々皇室から入寺されて住職が勤められていた寺をいう。外から見るだけで内へは入れないと聞いていたが、2年前訪れたときは内へ入れてくれた。修験道は特定の本尊をもたないが、大広間には本尊の不動明王(重要文化財)が置かれていた。・・・帰りに若いお寺さんに、「法衣の下はふんどしですか?」と聞くと、「今どき、寺の者(もん)でも、ふんどしははきませんよ。普通のパンツです。」という返事がかえってきた。その後、携帯電話で話しに夢中だった。確実に時代は変わっている。▲時代といえば、近鉄で、春と秋に、「一日体験修験道」というのをやっている。興味のおありの方は問い合わせてみてはどうだろうか。

▲上の写真は垂直にそそり立った岩山である。屏風立は大峯山中にあり、どうかと思うがあの辺りはロッククライミングの岩場となっている。

■すみれー第39話・万千代川ー

「いつの間にこんな所へ」「えっ」孝志は驚いた顔を向けた。「きれいな川ね」「ああ、前は汚れていた。今はきれいになっているけど」「水が売り物の醍醐寺の川が汚れていたんじゃ、話にならないよ」義清は言った。

醍醐寺境内の東に細い水流の川があった。「この川の名、知ってるか?」「ううん」「万千代(まちよ)川というんだ」「万千代川?」

三人はなおも下に向けて歩いていった。三宝院の入り口へ来た。孝志は三宝院入り口で、50代前後と思われる女性に無表情で名刺をさしだした。

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平地の宿

平地(へいじ)と申す宿にて、月を見けるに、こずゑの露の袂(たもと)にかかりければ  ◇平地と申す宿=21番靡・平地宿(下北山・十津川村境) ◇こずゑの露の袂にかかりければ=袖が、梢より滴り落ちる露と涙とに濡れることをいう。

(1110)こずゑ洩る月もあはれを思ふべし光に具して露のこぼるる(西行)

DSCN5017 ※梢を洩れくる月もしみじみとあわれを感じていることであろう。月の光とともに、その光を宿した露が袖にこぼれ落ちるよ。

▲月の光が梢の隙から洩れ、その光を宿して露がこぼれる。そして修行の旅空で月を仰ぎ、さまざまな思いに涙する西行。月も梢も西行も、それぞれが「あはれ」を思っているのである。「こずゑの露」「こずゑ洩る月」で、鬱蒼と繁った樹林中を修行のためめぐっている西行の姿が目に浮ぶ。

■すみれー第36話・醍醐の花見ー

「こっちの水の方が、醍醐水よりおいしいわ。ねぇ、おっちゃん、秀吉の醍醐の花見は有名だけど、どの辺りでやったのかしら」「槍山っていって花見山ともいうんだが、もうすこし下のほうだよ。今は立て札があるだけでなにもないよ。北の政所はじめ上臈女房衆がずらりといて、それははなやかだったらしいよ。それからサクラの馬場といわれている下一帯だね」

「秀吉は醍醐の花見の一年前、吉野山で花見をしているね。醍醐の花見はいわば吉野山のコピーをここ醍醐に再現しようとしたんだ。吉野桜700本を近江・河内・大和・山城の4ヶ所からとりよせているね」

「すごい力ね。ねぇ、秀吉はなぜ醍醐で花見をしようとしたのかしら」「よく難しい質問するね。孝志、助けてよ」

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小篠(こざさ)の宿

篠(ささ)の宿にて ◇66番小篠の宿(天川村)

(1109)庵さす草の枕にともなひて篠の露にも宿る月かな(西行)

※ここ小篠の宿で仮の庵を結び、草を枕として旅寝をするのだが、その枕に落ちる涙に、そして小篠の宿にふさわしく篠の露にも、月が宿ることだよ。 ◇庵さす=旅先での仮の庵を作る。 ◇草の枕=草を枕に旅寝をする。草は庵を作る草をもいう。

DSCN5005 天川村は奈良県天川村。大峯山脈従走は、南の熊野から出発して北の吉野で終わるのを、順峯(じゅんぶ)といった。役ノ行者が開いた道である。現在ではむしろ北から南への従走が多く行われているが、これは逆峯(ぎゃくぶ)と呼ばれている。その従走路に75靡(なびき)と称して、75カ所の行場(ぎょうば)があって、それぞれ名前がつけられ、伝説がある。順峯で行けば、第一が熊野の証誠殿で、第75が柳の宿、これは六田(むた)の川原が結願所となっている。 小篠の宿は、第66番靡だから吉野よりで、山上ガ岳(さんじょうがたけ・1719m、唯一の女人禁制の山。大峯山寺の山上本堂がある。)大普賢岳(だいふげんだけ・1780m)との間にある。 現在、小篠の宿は、醍醐寺(当山派・とうざんは)の根本道場である。ちなみに「再興第93回三宝院門跡大峯山花供入峯随喜修行日程表」によると、-略・・・・6月8日 6:15 龍泉寺参篭所着ー7:20 小笹根本道場御法楽、紫灯大護摩厳修、小笹根本道場出発ーーー。入峯の前に、四天王寺(天王寺)に参る。 ▲40・釈迦が岳、38・深仙の宿、29・前鬼山、28・三重(みかさね)の滝・・・

■すみれー第31話・大峯山ー

「西行が大峯修行を志したのは、一つには行尊という人間に惹かれたからではないかと言われているよ」「役ノ行者っていえば、吉野ね」

「吉野だけではないよ。吉野から熊野に至る間の大峯山もだよ。大峯山という山はないんだよ。しいて言えば『山上ガ岳』」「大峯山といえば、吉野から熊野一帯の山の総称なんだ」

「ふーーん、それで醍醐寺には役ノ行者の像があるんだ」

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転法輪の岳

転法輪(てんぽうりん)の岳(たけ)と申す所にて、釈迦の説法の座の石と申す所拝みて ◇転法輪=釈迦岳の別名ともいい、孔雀岳の南、大日岳の北。 ◇釈迦の説法の座の石=釈迦が説法をした折に座した石。そこから釈迦岳という名前がついた。

DSCN5003 (1119)此処(ここ)こそは法(のり)説かれける所よと聞く悟(さと)りをも得つる今日かな(西行)

※この場所こそが釈迦が説法された所と聞いて、見仏聞法の悟りの境地をも得た今日である。 ◇聞く悟り=仏を目で拝し、仏法を耳で聞いて悟ること。・・・・・所よと「聞く」と、法を「聞く」とを掛ける。

↑釈迦が岳の頂上にある仏像。大峯山系の中でも屈指の麗峰として知られる。端正な容姿のうえに峰中第一といわれるほど展望もよい。 南奥駈道(太古ノ辻ー玉置山の間)にある転法輪岳とは別。釈迦が岳は、山全体が仏体といわれている。

■すみれー第30話・大日如来ー

「一人の人間の体を大日如来の体としてみている。大きなほとけさまだね。修験道の修行者のことを『山伏』というが、修行者がお山に入るというのは、小さなほとけさまが大きなほとけさまの中に入っていくってことじゃない」

「ふーーん、大日如来ってお大師っさんの大日如来?」「そう。修験道では、仏教のなかでも密教の教えが重要な意味をもってるんだ」「お大師っさんの開かれた真言密教は、山岳修行をとても重んじているからね。修験道の祖は『役ノ行者』だけれど、体系を整えたのはこの醍醐寺の聖宝さんや園城寺(おんじょうじ)の行尊さんだと言われているね」

「園城寺って、三井寺(みいでら)のことでしょ。それで、三井寺に孔雀がいるのね」

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那智の滝

(382)雲消ゆる那智のたかねに月たけて光をぬける滝の白糸(西行)

DSCN1696 那智の高嶺では山の上の雲が消え、真如の月が冴えわたり、滝の白糸が、月光を宿す飛沫を貫くかのように落下している。

那智に籠りて滝に入堂し侍(はべ)りけるに、この上に一二(いちに)の滝おはします。それへまゐるなりと申す常住の僧の侍りけるに、具してまゐりけり。花や咲きぬらんとたづねまほしかりける折節にて、たよりある心地して分けまゐりたり。二の滝のもとへまゐりつきたる。如意輪(にょいりん)の滝となん申すと聞きて、拝みければ、まことに少しうち傾(かたぶ)きたるやうに流れ下りて、尊く覚えけり。花山(くわざん)院の御庵室の跡の侍りける間に、年旧(ふ)りたりける桜の木の侍りけるを見て、「すみかとすれば」と詠ませ給ひけんこと思ひ出(い)でられて

(852)木(こ)のもとに すみけるあとを 見つるかな 那智の高嶺(たかね)の花を尋ねて(西行)

※那智の高嶺の桜の花を尋ねて、花山院が桜の木の下をすみかとされ、心を澄まされたあとを見たことだ。

▲西国巡礼も岐阜の「華厳寺」を残すのみとなった。西国巡礼は観音巡礼で、四国の88ヶ所巡礼よりも歴史が古い。写真は、「那智の滝」で、正確には「飛瀧(ひろう)神社」という。ただし、鳥居があるだけで、神社はない。滝が御神体だからである。西国第一番札所、「青岸渡寺(せいとがんじ)」は、滝からすこし登ったところにある。花山院は、西国巡礼の中興の祖とされておられる。

■さよなら思い出橋ー第36話・てんのじ村ー

萌は唄い終えると、立ち上がって拍手した長身の男の所へ行った。「よかったですよ」男は微笑んだ。萌もそれにつられるように微笑み返した。

店が終わって、萌は鉄治と一緒に「てんのじ村」にある家にもどった。「てんのじ村」というのは、大阪の芸人達があつまっている所で、鉄道の天王寺駅から歩いて10分ぐらいの所にあった。鉄治と萌が一緒に暮らすようになってから5ヶ月が過ぎようとしていた。二人は兄、妹のような関係で、それが5ヶ月もの間続いた。

空気が夏から秋に微妙に変化したある日、萌は鉄治に、「なあー鉄ちゃん、・・うち、この家出ようと思うねん」「ん?、出るって、どこ行くねん」「うん、・・義清さんとこに行こうと思とるねん」「義清って、よく店に来る、大学生か?」「うん」「あかんあかん、あんな、頼りない男」「そんなことゆうたかて、うち、もう決めたさかい」「・・・・」二人の間に沈黙が続いた。

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護持院隆光⑤

DSCN1880 松風如といふことを、北白川なろ所にて人々よみて、また水声秋といふこと

(251)松風の音のみならず石走(いしばし)る水にも秋はありけるものを(西行)

※松風の音を聞くと秋の訪れをおもわせられるが、そればかりではなく、石の上を勢いよく流れてゆく水の音にも、秋ははっきり感じられることだよ。松風の音、石走る水の音と、聴覚に訴えるものに秋を感じとった歌。参考「秋来ぬと目にはさやかに見えねっども風の音にぞおどろかれぬる」(古今集」秋上、敏行)。

護持院隆光は、なにも東大寺大仏殿の復興にのみかかりきりであったわけではない。大仏殿の復興とともに、彼が桂昌院を動かして法隆寺の金堂、五重塔の元禄大修理の資金500両を寄付させたことも、今日のわが国文化財保護のうえからは特筆大書すべきことであろう。法隆寺にいま「元禄七年甲戌九月」付の「綱吉公御母桂昌院様御修覆金等目録」という書状が残っている。同年、法隆寺の宝物が江戸に出開帳され、桂昌院が太子像仏舎利はじめ霊宝類をごらんになり、その返礼として黄金500両や金襴の打敷、銅灯籠、米200俵等を寄付したという一札である。これによって慶長の修理以来、約100年を経て修理期を迎えていた法隆寺の金堂、五重塔は、蘇生一新することが出来たわけである。この修理によって、五重塔と金堂の屋根には、徳川家の葵の紋と桂昌院の里方、本庄家の九目結紋の瓦が葺き上げられて現在にいたっているし、法隆寺西院の金堂と塔の間にはこの寄進修理を記念した大きな銅灯籠がいまも立っている。もし、元禄の修理がなければ、法隆寺の堂塔が無事明治を迎え得たかどうか、保証の限りでない。あるいは、人は、法隆寺の元禄修理は桂昌院の寄付によるもので、隆光とは直接関係がないなどというかもしれない。なるほど、寄進状に隆光の名前は出て来ないから、事実だ、確かな証拠だという近視眼的な見方をすればそうかもしれない。だが、桂昌院がなぜかくも深く仏教を信じ各社寺に金品の寄付をするようになったかを考えると、隆光なくしては考えられない必然に気づくはずである。第一、大和の片田舎の法隆寺が江戸で出開帳をやれる下地はいったい何であったのか、隆光なくしては考えられないことなのである。

隆光の、大和の古社寺に残した業績はこの二寺だけに限られるものではない。室生寺の金堂の本堂と礼堂とをいまのような”すがる破風”の一体の建物に改造修理した2000両の資金、唐招提寺東大寺の戒壇院の復興、長谷寺の興書院とその他の殿舎や春日大社の薬所、そのほか根来寺復興東本願寺唐門等、護持院隆光の肝煎りで復興あるいは新築された上方の社寺建築は数えるにいとまないほどである。

平安末期から鎌倉初期に活躍した西行と護持院隆光とは時代も違い直接関係はないが、ともに大仏殿再建につくしたこと、隆光の出身の寺の長谷寺は謡曲「初瀬西行」の舞台であること、隆光に深く帰依した桂昌院(京都・大原野出身)は、西行が佐藤義清のとき剃髪出家した寺という説もある「勝持寺」を修復したこと・・・等因縁浅からぬ関係に思えます。それに、これだけの業績を残した隆光がテレビドラマなどで悪役にされ、歴史の片隅に追いやられているのは気の毒な気がする。

■さよなら思いで橋ー第28話・朝(あした)無しー

この年(1938年・昭和13年)の3月、ドイツのナチス政権がオーストリアの主要都市を占領して同国をドイツに併合した事件、すなわち独墺合併がおきた。ナチス・ドイツは「ヨーロッパ新秩序の建設」をスローガンに掲げ、さらにこの年の11月、それに呼応して日本の近衛内閣は「東亜新秩序建設声明」を発表した。時代は戦争に向かって坂道を転がり始めていたのである。

「・・・・土の鈴鳴らして昨夜(よべ)は遊びゐき一国(いっこく)は欧州にこの朝無し「今、なんて言った?」「土の鈴鳴らして昨夜は遊びゐき一国は欧州にこの朝無しだよ」「へぇー、それ、あんたが考えたの?」「いいや、俺の知り合いが書いたやつを・・」「書いたやつをって・・、同人誌かなにか?」「うん、そうだよ」「もうひとつ意味がわからないけど・・」「オーストラリアの人々が迎える朝は、もう昨日とは異質の悲劇的な朝だ・・というような意味じゃない」「ふーーん、あんたって学があるのね」

※上の歌=「宮柊二」の「群鶏」より

済生会病院ー結核予防会(道修町)=美々卯(みみう・道修町店、満員で入れず→梅田)=1:00阪急梅田ーーー水無瀬=水無瀬神宮==桜井の駅=水無瀬ーー南方ー江坂ー自宅・・大阪シティ・アカデミー(仕舞・素謡を見学)・・自宅

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護持院隆光③

池上

(247)かげさえて月しもことにすみぬれば夏の池にもつららゐにけり(西行)

DSCN4596 ※光が冴えわたって、月が格別に澄んで池にうつっているので、夏でありながら氷が張ったように感じられるよ。

▲河辺隆光は慶安二(1649)年二月八日、大和国添下郡佐紀超昇寺村に生れた。河辺(川辺)家は近世初頭、大和地侍の超昇寺党のメンバーであったというが、要するに半農の家である。幼いころから神童のほまれ高かったというから、いずれ超昇寺の僧侶らに目をかけられて育ったのであろう。悲運の寺とはいえ、松林苑の一隅に、なお当時は広い寺地を構えていたものと考えられる。十歳前後で縁あって唐招提寺の朝意のもとに入門剃髪、律宗の勉学をしたが、たちまち頭角をあらわして師のすすめによって新義真言の修学のために多くの弟子たちの集まる長谷寺に遊学、豊山派の亮汰(りょうたい)について真言の奥義をマスターした。ついで興福寺におもむいて宥専(ゆうせん)から両部灌頂を受け、盛源から法相唯識の教学を学んで、まさに顕密両教の少壮学僧として広く知られるようになった。さらに法隆寺で倶舎論を聞き、長谷寺慈心院の住持として南都はもちろん、江戸にまでその碩学の英名はおよんだという。

貞享二(1685)年、36歳の若さで江戸浅草の勧進所に招かれ、翌年には将軍家の筑波山知足院住職に迎えられて将軍家の篤い信任を受けることとになった。のち五代将軍綱吉の命によって、寺地を神田橋外に移して護持院と改め、将軍はもちろんその生母桂昌三ノ丸様(←※お玉=「玉の輿」の語源)の、ことのほかの信頼を得て幕府の宗教政策に大きな影響力を持つことになった。

※京都・今宮神社門前、「八百屋」の娘、お玉。DSCN2515 →今宮神社

▼am10:00-済生会・吹田病院ー家=昼食ー12:30--ビジネス・パーク駅ーツイン21・5階ーpm4:40-天王寺駅(定期券購入)-江坂=帰宅

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亀井の水

大阪市道修町→天王寺駅・・徒歩・・一心寺シアター・・四天王寺(亀井の井戸、亀井不動尊、前鬼・後鬼を従えた役ノ行者像・・)・・一心寺境内→大阪城本丸前(ブックフェスティバル)→江坂、自宅。

天王寺へまゐりて亀井の水を見て詠みけるDSCN4512

863あさからぬ契りのほどぞ汲まれぬる亀井の水に影うつしつつ(西行)

天王寺=四天王寺。西門は西方極楽浄土の東門に相対するといわれる。亀井の水=天王寺の境内にあり、金堂の龍池より出て、白石の隙から湧出するので白石玉出の水という。

※西方極楽浄土に真直ぐに対する天王寺にお参りし、亀井の水に姿をうつして水を汲むことであるが、前世からの深い契りのほどが思われるよ。

○亀井の水は井戸のようになっていて、周囲は「亀井不動尊」と呼ばれている。京都の醍醐寺は、大峯山に行く前には、「四天王寺」に立ち寄っている。DSCN4514

■さよなら・思いで橋ー第18話・ソロー

萌が、急遽の、代役の初舞台が済んで、3日がたった。紀美は、結局、男と駆け落ちして姿をくらませた。萌はそのまま舞台の一員となった。初舞台は照明やら周りの援護でなんとかごまかすことができた。

....、また20日ほどたった。「萌ちゃん、今日、あんた一人で唄ってみぃへんか?」「一人で?」「全部とおしてってわけじゃないけど、一部分、ちょっとの時間だけど」「ええんですか?」「そりゃ、ええのよ。遠慮することないのよ。あんたが良かったら、お客さんもぎょうさんきはるさかい。そうなると、うちらにとっても都合がええのよ」「はぁー」。「なんやの、気のない返事して。ええやろ!」

いつもの鉄治の「すててこ節」で幕はあいた。・・・中央の舞台に立っていた萌にスポットライトがあたった。♪~「夜のとばりがおりて星またたく。 星・麗し、星・哀し。」萌はそこで、持っていたステッキをぽんと足でけった。くるりとターンして、♪~「星・哀し、星・星・・・・」。曲調が変わった。♪~「夜のとばりがおりて人、人、人恋し~」。ピアノの音が歌詞にかぶさって萌のソロは終わった。

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葛城山よりPLの花火を!

葛城登山口(pm3:00)・・・櫛羅(くじら)の滝・・・天神ノ森・・・葛城山山頂(pm5:00、959.7m)・・・・・・・(pm7:45)PL花火大会を山頂から見物(8:45)・・ロープウエーで降りる・・・葛城登山口駅(pm9:30)

DSCN4471 DSCN4476 DSCN4478 DSCN4479 DSCN4498                  ササユリ

葛城を過ぎ侍りけるに をりにもあらぬ紅葉の見えけるを、何ぞと問ひければ、まさきなりと申しけるを聞きて

(1078)かづらきや まさきの色は 秋に似て よそのこずゑは緑なるかな(西行)

ここ葛城山では、まさきのかずらの色は秋に似て紅葉し、他の木の梢は緑であることよ

■さよなら・思いで橋ー第17話・はじまりー

お客がぼちぼち入りだして、最初の舞台が始まった。燕尾服にシルクハット姿の鉄治が登場した。

♪~さぁー、はじまり、はじまり。トコドッコイドッコイドッコイ。 向こう横丁のお稲荷さんえ 一銭なげてチョット拝んで おせんがお茶屋で腰をかけたらシブ茶をだして シブ茶ヨクヨク横目で見たれば土の団子かお米の団子かお団子団子団子 そんなこっちゃ仲仲シブ茶にならない トコドッコイドッコイドッコイ。

♪~市川団しゅうの十八番。カッキョのかまほりオレレノレ 円太郎ラッパで婆さん 危ない円遊のすててこ ドウドウさかえはおきなの ピイピイトコドッコイドッコイ。

♪~逢いたさ 見たさにしたさに 来たのじゃ我が身の体と思い ちゃいけないあんやを たたいてせっせとおやりよ トコドッコイドッコイドッコイ。(大和屋歳時、柴田書店より) 

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青丹よし③

おはようございます。
昨日はバスと徒歩でJR帯解駅(奈良県・桜井線、無人駅)まで行きました。それからJR桜井線に乗って、畝傍(うねび)で下車。今井町に立ち寄って・・・・。「山辺の道」というと、「海拓榴市(つばいち)(桜井市)-三輪布留(天理市)辺りの古道」だと思っていました。「白毫寺(びょくごうじ)-円照寺(えんしょうじ)・正暦寺(しょうりゃくじ)辺りーーーー」も「(北)山辺の道」だということを知りました。DSCN4438

レポート、ありがとうございました。
堺圏は、堺県ですね。

職場に「堺の歴史を記した写真集」が置いてあるのですが、大阪と奈良が堺県だったという記述があり、驚きました。初めは信じられませんでした。「大阪府の歴史散歩(下)」「奈良県歴史散歩(上)」によりますと、

1868(明治元)大坂城炎上。大久保利通大坂遷都を提議。※堺事件起こる。大阪府設置。5月に奈良県が設置(旧藩領・十津川郷は除く)

1869(明治2)大阪府から摂津・河内県が独立、摂津県を豊崎県と改称、河内県を廃し堺県とする。郡山藩外7藩、版籍奉還し知藩事が任命される。
1970(明治3)五條県設置(宇智・吉野両郡、河内国石川郡・錦部郡、紀伊国伊都郡を含む)
1871(明治4)廃藩置県により大和国内に15県成立。

1876(明治9)奈良県が堺県に合併される。            DSCN4435
         

       
1881(明治14)堺県廃止、河内・和泉・大和の3国は大阪府の          管轄となる。

1887(明治20)奈良県再設置。

1889(明治22)大阪・堺に市制実施。

堺事件=有名な事件だそうですが、私は歴史散歩を読むまでは、知りませんでした。おせっかいですが、書いておきます。「1868=慶応4年、2月15日、フランス軍艦デュクブレス号が堺沖に回航し、数十名が2隻のボートで上陸した。当時、堺の町は土佐藩の兵士が警備していた。箕浦猪之吉・西村左平次を隊長とする藩兵たちは、なんのために上陸してきたかわからないフランス人水兵を船に戻すべく、説得に出勤した。しかしことばが通ぜず、また、水兵が店先にあった隊旗を奪うなどの行為にでたため、7人を殺傷するという結果になった。これは諸外国の強く抗議するところとなり、下手人である隊長以下隊員全員を斬首すること、土佐藩がフランスに15万ドルを支払うこと、など5項目の要求を政府に突きつけた。その結果、箕浦・西村両隊長以下20名が妙国寺で切腹することとなった。・・・・・・・略・・・・・。

また、参考までに、①1868(明治元)年、新政府のもと、堺県が設置された。その後奈良県が独立、残りも1881年、大阪府に移された。1889年に堺市は市制を敷いた。②郡山中学校(現、奈良県立郡山高等学校)は大和郡山城の二の丸にある。もともとこの中学校は郡山藩の柳沢の藩校、啓明館の後を継ぐ形で明治9年に小学校教員養成の目的で郡山予備校として開校、明治14年に現在の地に移って大阪府立郡山中学となったという。県下では一番古い歴史を持つ県立中学である。だが、明治20年に奈良県が再設置されて、県庁が奈良町(現奈良市)に置かれることに決まってからは、奈良県の中心は大和郡山から奈良に移り・・・・・。  (奈良の街道筋ー上ーより)

そういえば、難波から近鉄奈良駅まで、快速急行(特急料金はいらない)で28分。大阪と奈良は近い。

■さよなら・思いで橋ー第14話・連れてってー

次の朝、萌は、大阪での初めての朝を迎えた。鉄は、まだ寝ていた。起こさないように、萌は、そうっと蒲団をぬけだした。戸を開けて外に出た。細い路地には、なにやらこまごまと植木が並べられている。好奇心に満ちた目でそれを眺め、やや大きな通りにでた。鉄の家の位置を確かめるようにゆっくりとした足どりで萌は歩いていった。(空気が違う)と萌は感じた。

家に戻った。「なにぃ、しとったん?」「えへへへ、ちょっとね、散歩」「散歩、あんまり、うろうろせんほうがええで。昨日みたいなことがあるからな」「うん」....、「朝ごはん、つくるわ。それぐらいさせて..」「材料は、...その辺にあるやろ?」

「...なぁ、鉄ちゃん?」「なんや」「あのな、今夜、うちを宗右衛門町へ連れて行って。なあもせんと、ぶらぶらしてるの...なんか悪いし、それに..」「それに?」「それに、うち、なんか、したいし」

 

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青丹よし②

青丹と書いて、ふと思った。丹は水銀のことで、かつて奈良が都(=平城京)の時、水銀の煙が人を蝕んだそうだ。真偽はどうかわからないが、ありえる話だ。今、アスベストの問題がでている。30年後に症状がでるなんて恐い!と思う。そういえば、30年前にアスベストを敷きつめた学校の天井裏で遊んだことがあるが....。どうなのだろう?

円照寺は、新薬師寺百毫寺(びゃくごうじ)などの寺とともに奈良の南郊にあたる所である。新薬師寺、百毫寺は小さいながら、それこそ宝石のような寺であるが、数度訪れているので今回は行かなかった。百毫寺は高円山(たかまどやま、大学の心理学の同窓会名は高円会という。(432.2m)の中腹にあり萩の寺として知られるが、寛永年間(1624~44)に興福寺喜多院から移植したという五色椿(ごしきつばき、県天然)は東大寺開山堂の糊(のり)こぼし、伝香寺の散り椿とともに「三名椿」といわれる。高円山は古くから人々に親しまれ、数々の歌に詠まれてきた。

高円の野辺の秋萩この頃のあかつき露に咲きにけむかも(大伴家持「万葉集」巻20)

ますらをの高円山に追(せ)めたれば里に下りけるむささびそこれ(大伴坂上郎女「万葉集」巻6)

能登川の水底さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも(「万葉集」巻20)

DSCN4433 八島の祟道天皇御陵を後にして、近鉄奈良駅方面のバスを待った。近くにある正暦寺(しょうりゃくじ)は6年前ぐらい紅葉の時期に来たことがあるので行かなかった。かつては大きな寺だったらしくて、境内は広大である。しばらく待ったが来ない。時刻表を見たら1時間後。それも藤(=藤原台、住宅地)と書いてあるので奈良駅まで行かない。(いったいここら辺りの人はどうやって生活されているのかな?)と思って地図をみたら、JR桜井線帯解(おびとけ)駅に近い。小説・「豊饒の海」に登場する本多は、たしか円照寺を訪れた後、帯解駅まで歩いたように記憶している。徒歩30分ぐらいで「帯解寺」(華厳宗)に着いた。本尊は木像地蔵菩薩半跏像(国重文)で、鎌倉時代の作である。安産祈願の寺として、関西では、ここと中山寺(宝塚市)が有名である。境内は思ったより広くなかった。徒歩5分でJR帯解駅に着いた。

■さよなら・思いで橋ー第13話・おしゃべりー

「鉄ちゃんが女に興味がないというのは本当?」「えっ..?そうやったかいな?そんなことあらへんやろうが。でも、まぁー女づれのとき、あんまり見かけへんなぁー。そうそう、前に可愛らしいぃ男の子と一緒に住んどったなぁー。女に興味ないちゅうのは、ほんまかもしれへんでぇー」「ふーーん、その程度なの?」「その程度って?」「えっ、...ちょっと」「ちょっとって、変な女(こ)やなぁー。あんた、萌ってゆうたな。そんで、どこから来はったの?」「答志島」「答志島って、鳥羽の沖の..?」「そう」

萌は近所のおばちゃんと、とりとめのない話をしているうちに、夜がふけていった。

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天神祭、陸渡御・船渡御

※JR吹田駅近くにある「大阪シティアカデミー」で「謡曲」と「仕舞」の体験をした。先生は、観世流準職分シテ方の「寺澤忠芳」氏。→花火を観るため大阪市に向かう。

▲渡御列発進(とぎょれつはっしん)=王朝風俗の絢爛豪華な衣裳をまとった約3千人の大行列が、まるで時代絵巻を描くように連なり「チェーサージャー」という掛け声で打ち鳴らす催太鼓を先頭に渡御が始まります。

▲渡御列乗船(とぎょれつじょうせん)=陸渡御を終えた集団が、天神橋北詰から船に乗り込みます。船の数は百隻余り。御神霊をお乗せした御鳳輩船などの奉安船や各講社の供奉船などの船団は、天神橋を発進し大川の上流方向へ。逆に御神霊をお迎えする奉拝船団は、飛翔橋から発進し大川を下ります。この時に花火がうちあげられます。

▲大川の中ほど、御鳳輩船の上では、菅原道真公の誕生日を祝う「船上祭」が執り行われます。また、他の舞台船では厳かな神楽や伝統芸能の数々が上演されます。

▲渡御の一団は、宮入に備え、順序良く上陸を開始し、一路天満宮表門へと向かいます。

▲祭りのフィナーレを飾る勇壮な宮入が続きます。先に到着して待ち構えている催太鼓の面々と大阪じめで手打ち。すべての宮入が終わるのは22時過ぎ、引き続き本殿では神事の「還御祭」が執り行われ、天神祭の幕が降ろされます。

■さよなら・思いで橋ー第10話

「よけいなことせんといて」「よけいなこと?」「そうです。うち、たのんだわけでもないのに..」「へっ!さよか。ほな、なんで、ついてきたんや?」「...あの時はわけがわからなくて....」

「..ほな、さいなら」。男は気を悪くしたのか、踵を返してすたすたと早足で立ち去ろうとした。

「あっ、待って!」

「さっきよけいなことせんといてって、ゆうたばっかりや」

「ごめんなさい。うち、行くところがなくて....」

「まぁー、そんなところやろ。わてについてきぃー。ところで、あんた、名前は?」

「萌、萌です」

「ふーーん。そんじゃぁー」

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宵宮祭(よいみやさい)

夏祭りが、京都、大阪などで開催されている。

▲鉾流神事(ほこながしんじ)=天神祭の無事と安全、浪花の街の繁栄を祈願し、祭の開 幕を告げる厳かな神事※(7・25付、朝日新聞朝刊より、 日本三大祭の一つ、大阪の天神祭が24日、宵宮を迎え、大阪市北区の堂島川では祭りの無事を祈る鉾流(ほこながし)神事があった。半世紀以上、途絶えていた鉾流歌も披露され、祭り気分を盛り上げた。鉾流歌は1930年、鉾流神事が復活したのを機に、天満宮ゆかりの菅原道真の和歌を雅楽の曲に合わせて歌われるようになった。戦時中に途絶えたが、94年に天満宮の元神職の遺品から譜面が見つかり、雅楽の専門家らの助言を受けながら今年、復元された。

▲自動車渡御(じどうしゃどぎょ)=大阪市内を十数台のトラックが2グループに別れて華やかにパレードします。二台には、お迎え人形のレプリカを載せ、カネ・太鼓を響かせ祭りがはじまることを街中にふれて回ります。

▲催太鼓(もよおしだいこ)氏地巡行~宮入り=渡御の先陣を切り、行列をリードする催し太鼓。祭りの準備が完了したことを知らせるために天満宮周辺の氏地を巡り、夕方に宮入します。DSCN4400 

▲獅子舞(ししまい)=祭りの景気づけに、獅子舞の一団が氏地を巡行します。

▲地車囃子(だんじりばやし)天神祭囃子=天満宮境内では、賑やかにお祭り気分を演出する地車囃子が響き渡り、龍踊りが披露されます。DSCN4397 

■さよなら・思いで橋ー第9話・疾走ー

萌は男に魅入られたようにふらふらと後をついて行こうとした、その時、ふいに腕をひっぱられた。「やめとき!」「なんやねん、じゃまする気ぃーか!....」言い終わらぬうちに、萌と腕をひっぱった男は反射的に駆け出していた。

男の姿が見えなくなったのを確かめるように二人は徐々に速度を弱めていった。

「ああー、しんど!」

男は大きく息をはきだして、萌に向かってにこっと笑った。愛嬌のある目がくるくるっとまわった。

「あんたあぶなかったな、あいつ女(げ)ぜんやで」「女ぜんって?」「女を売りとばすんや」「....」。

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答志島

崎志摩の小石の白を高波の答志の浜にうち寄せてける 西行法師

鷺を思わせる崎志摩の白い小石を、高く激しい波が答志の浜にうち寄せたことだよ。

大阪の海水浴場といったら「浜寺」だったが、私が福岡から大阪へ転居してきた1964(昭和39)年頃はもう汚れていた。それで、中学の臨海学習は淡路島だった。近場の海水浴場といえば源氏物語で有名な須磨なのだが、ここも汚れてきて、もっぱら若狭鳥羽の方へ泳ぎに行っていた。鳥羽は難波から近鉄特急で1時間50分ぐらいで意外と近い。志島の和具港へは鳥羽の佐田浜港から乗船し、市営の定期船で20分ぐらいだったと記憶している。近鉄・鳥羽駅からぶらじる丸を右手に見ながら佐田浜港へと歩いていった。

■さよなら・思い出橋、第7話ー旅立ちー

萌は決心したように立ち上がった。そっと戸をあけて港へと小走りにかけていった。まさに出ようとしていた船にやっとの思いで乗り込んだ。ゆっくりと、いままで住んでいた答志島が通り過ぎていった。そして、まもなく鳥羽の港に着いた。

萌は、そこからしばらく歩き国鉄鳥羽駅から蒸気機関車に乗り込んだ。それまでの緊張と疲れからか眠気が一気に押し寄せてきた。

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大阪天神祭・陸渡御(1/4・催太鼓)

リンク: 大阪天神祭・陸渡御(1/4・催太鼓).

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下鴨神社

DSCN1505 DSCN3842 京都御所の北東に賀茂川と高野(たかの)川の合流点がある。これより下流を鴨川と記して区別している。この二つの川に挟まれた三角州の一帯は古くから糺(ただす)の森(国史跡)、または河合の森とよばれて、平安時代から潔斎の地として知られ、歌にも詠まれてきた。三角州の先端近くに下鴨神社が鎮座する。

下鴨神社の代表的な祭礼として、上賀茂神社と合同で行う葵祭(賀茂祭)がある。参列者の衣冠や車を葵の葉で飾ったことから生れた俗称であるが、こDSCN1507の呼称が一般化した。石清水八幡宮の祭りを南祭りというのに対して北祭ともいい、平安時代には祭りといえば賀茂祭をさしていた。王朝時代、この祭りを見物するために一条大路にはたくさんの桟敷が設けられ、よい場所を求めて争うことも少なくなかった。「源氏物語」の葵上(あおいのうえ)と六条御息所(みやすどころ)の車争いの話は有名である。応仁の乱後中絶したが、1694(元禄7)年から再開され、現在では祇園祭・時代祭とともに京都の三代祭りの一つになっている。そのほか1月15日の御粥(おかゆ)祭、土用の丑の日の御手洗神事、立秋前夜の夏越(なごし)の神事などがある。夏越の神事は裸の男たちが池に飛び込んで丹塗りの矢を奪いあう勇壮なものである。

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祇園祭③

          ←DSCN4343 今日は、祇園祭のハイライト、山鉾巡行の日だ。DSCN4348

八坂神社の紋。胡瓜の輪切りに似ているため、祇園祭の期間中は胡瓜は食べない。

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熊野街道

DSCN4187 「蟻の熊野詣」で知られる熊野街道は、窪津(くぼつ・大阪市中央区八軒家付近)から阿倍野王子を経て紀伊路を南下して熊野三山に至る古道で、平安から鎌倉時代にかけて、熊野信仰の隆盛とともに往来が盛んであった。街道筋には99カ所の王子とよばれる遥拝所があったという。そののち江戸時代にはさびれ、今は阿倍野王子神社付近や和歌山県近くの山中渓(だに)などにわずかながら往時の姿をとどめているにすぎない。

阿倍晴明神社のすぐ南に阿倍王子神社がある。仁徳天皇の創建と伝え、DSCN4194 空海が祈祷したとの記録がある。社殿は鉄筋コンクリート製、銅板葺屋根で、熊野本宮本殿の証誠殿(しょうじょうでん)を模したものである。正面向拝右柱に「日本第一大霊験所、根本熊野三所権現、第二王子社」、左柱に「日本第二宗廟、鎮護国家国民、岩清水八幡宮御分社」の金属製札が掲げられている。1907(明治40)年、現中央区安土町から男山八幡神社を合祀したが、社務所左手の石碑にその八幡神社の由緒と合併の事情が記されている。

DSCN4195 なお、本殿東側には、屋根を連続させて、末社の阿倍晴明神社と関係の深い葛之葉稲荷がある。

DSCN4197 DSCN3586         DSCN3601          DSCN3611          DSCN3568  

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堺・仁徳陵

堺の歴史は長く、自治都市として栄えた戦国時代に一躍黄金期を迎える。そこで培われた創造性は現代に受け継がれ、歴史と発展が共存する独自の空気を生んでいる。          

                            

台地の築かれた百舌鳥(もず)古墳群は、仁徳天皇陵や覆中天皇陵を中心に、東西・南北とも約4kmほどの範囲に広がっている。いたすけ古墳などから出土した無数の埴輪は、お供の人々が生き埋めにされる代わりに置かれたという説もあったが、現在では古墳の斜面が崩れないよう石とともに並べられたと解釈されている。

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伊藤若沖

若沖は京の中心街、高倉錦小路の青物問屋の長男として享保元年(1716)2月に生れた。しかし彼は生来商売がきらいで、ただ絵を描くことを好み、絵を描く以外は何も出来なかったという。明和3年(1766)11月に若沖が請うて相国寺塔頭松鸛庵(しょうおうあん)に建てた自身の寿塔の撰文を、大典禅師が書いているのに、詳しく出ている。最初、狩野派の画家に一応の手ほどきをうけはしたが、その粉本主義にあきたらず、「物」に即して描くのが一番いいと悟って以来、もっぱら写生を主とした独自の画境を展開する。そんな、およそ人びとがたのしむ遊興の類(たぐい)も求めず、世俗の富貴利達には目もくれず、ひたすら絵を描くことに打ち込んでいる若沖と、壮年宗教家・大典禅師の純一なものが見事に一致したのであろう。

若沖に関する文献などは彼の出生地である京都にあるが、大阪にも若干残されている。小曽根(おぞね)は自宅から自転車で10分も走れば着くことができる。国道からそれて細い路地を入ると、昔ながらの佇まいの一画がある。豊中市消防団小曽根分団の車庫の奥に「西福寺」(大阪府豊中市小曽根1-6-38)の門が見える。門内に入った所に市保護樹林に指定された枝ぶりの実にみごとな松がある。当寺は、1308(延慶元)年の開創当時は天台宗であったが、1318(天保2)年に改宗して浄土真宗になっDSCN4303 たと伝えられる。その後火災にあい、1718(享保3)年に再建された。本堂内陣の両側6面の襖に描かれた群鶏図(国重文)は若沖の名作で、金地に雌雄の鶏10羽と雛7~8羽が描かれている。普段は見られず、年に1度=11月3日、文化の日のみ見ることができる。この襖絵は、当時の檀家であった大坂の薬種商吉野寛斎(かんさい)が寄進したもので、寛斎と親しかった縁で75歳の若沖が当寺に滞在し、半年かけて描きあげたものである。大きなサボテンを配した斬新な発想は、寛斎の示唆によるものといわれている。

DSCN4105 近くに「住吉神社」(豊中市服部南町2-3-31)がある。全国各地にある住吉神社の一つだが、創建は不詳である。現在の社殿は、1961(昭和36)年に大阪市北区にあった豊国(ほうこく)神社が、大阪DSCN4110市役所の増築で大坂城内に移転した際、その社殿を譲り受け移築再建したものである。社殿の東側にある能舞台は、もとの大阪博物場(現大阪商工会議所)に、1898(明治31)年、能楽界の篤志家の寄付によって建立された大阪最古のものである。能舞台は、1998(平成10)年秋に国指定の登録有形文化財に指定された。

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大阪城

大阪城豊臣秀吉が築城したことで知られるが、その前にいろいろな経過があった。DSCN4290

蓮如が今の大阪城がある辺りを通りかかった時、この地はなんと言うのか?と問うと、「摂州東成郡生玉荘大坂(おさか)」と土地の人が答えたという。蓮如に、次のような和歌がある。

・みな人に弥陀をたのめと夕浪の河おとたててみゆる大さか

・又舟にのりてぞとをるわたなべの磯ぎはとをる大さかの山

・大さかへのぼらんとおもふみちよりも弥陀をたのまん心あるべし

・いくたまのひかりかがやく志ぎ(宣)のもりみちもひろげにみゆる大さか

つまり、「おさか」→「おおさか」と転じたのである。なお、今使われている大阪は、明治以降と聞いている。蓮如以降は、大坂である。

年表

1497(明応6)石山坊舎が出来る。門徒宗が参じ堺などの商人を招き寺内町をつくる。

1524(大永4)三条西実隆が日記に、おさかは本堂は荘厳美麗で町は賑わうと書く。

1532(天文1)山科本願寺が細川晴元、六角定頼、法華宗徒に攻められ焼亡する。10代    法主の証如(しょうにょ)は石山御坊を本願寺とし本山とする。寺内町は新屋敷、北町屋、西町、北町、清水町、南町屋の6町の親町から成る。次第に堀を深くし土居を築き、城塞化する。

1536(天文5)証如は石山6町の構えを巡視する。寺内町は膨張し、横町、檜物屋町、青屋町の枝町3町が出来ている。

1538(天文7)親町6町には、くぎぬきと称する門戸があった。夜は閉められた。門の鍵が本山から各町に渡された。ある程度の自治があった。警察と裁判権は本山にあった。徳政令(=借金は棒引き)は大坂を除外した。

1542(天文11)造作町が出来、10町となった。寺地は拡張し、堀の工事も続く。土倉と呼ぶ質屋や絹屋、油屋、炭屋、餅屋、酒屋、茶屋、薬屋、墨屋、扇屋、そして風呂屋があった。野菜の市が立つ。大工、左官、鍛冶、檜物、曲げ物、土器、染物、桶の職人が住む。

1554(天文23)証如が死に、顕如が11代本願寺法主(ほっしゅ)を継ぐ。

1561(永禄4)織田信長が堺に遊び、途中に石山本願寺を見た。大坂はおよそ日本一の境地なり、と言う。(信長公記)桶狭間の戦いの翌年に当たる。ポルトガル人の宣教師ヴィレラが大坂の様子を報告する。

*(信長公記)抑も大坂は凡そ日本一の境地なり、其子細は奈良、堺、京都に程近く、・・・・江と川とつづひて渺々(びょうびょう)と引きまはし、西は滄海漫々として、日本の地は申すに及ばず、唐土、高麗、南蛮の舟海上に出入り、五畿七道集りて売買利潤富貴の湊(みなと)なり、

*ヴィレラ「耶蘇会士日本通信」諸人の彼(顕如)に与うる金銭甚だ多く、日本の富の大部分はこの坊主の所有なり。毎年甚だ盛んなる祭り(報恩講)を行い、参集する者甚だ多く、寺に入らんとするが故に常に多数の死者を出す。しかもこの際、死することを幸福と考え、故意に門内に倒れ、多数の圧力によりて死せんとする者あり。夜に入りて坊主彼らに向かいて説教をなせば庶民多く涙を流す。

1562(永禄5)寺内町で火事があり、2千軒余を焼失する。

1564(永禄7)ポルトガル人の宣教師フロイスが大坂で大火に会う。法安寺から火が出て御堂が殆ど焼失した。寺内町にも移り、9百戸が燃えた。生きながらに100人が死んだ。(フロイス日本史)御堂は再建されて手狭になり、法安寺は南の丘に移ってもらう。

1568(永禄11)信長、足利義昭を奉じて入京。義昭、将軍となる。信長、矢銭(やせん・軍用金)を課す。堺は拒否し、本願寺は応諾する。5千貫文=8億5千万円。

1569(永禄12)三好三人衆が京に義昭を襲うが、破れて阿波へ逃げる。信長、堺を脅迫し、堺は屈する。尼崎が矢銭を拒み、信長がこれを焼き払う。信長と義昭が衝突する。信長、本願寺に詰問状を発する。

1570(永禄13)信長、本願寺に石山退去を命ずる。本願寺顕如は拒否する。信長、朝倉義景を攻めるが、背後で浅井長政が挙兵する。信長は辛くも逃れる。信長、近江姉川に浅井・朝倉連合軍を破る。

1570(元亀1)三好三人衆が大坂に上陸し、野田と福島に砦を構えた。信長、大挙して石山を含む大坂を包囲し、三好方に総攻撃をかける。顕如は浅井と朝倉と門徒の連合軍が近江で行動を起こしたとの注進を得て、織田軍への攻撃に立ち上がる。石山合戦始まる。織田は苦戦に陥る。信長、転進を命ずる。京へ帰り、浅井・朝倉軍を叡山に包囲したが、和睦する。

1571(元亀2)信長、長島の門徒を攻撃したが、大敗北を喫する。信玄が西上する。信長に降っていた松永久秀が寝返り、信玄に通じる。信長、叡山を焼き討ちする。顕如、浅井や朝倉に手紙を送り激励する。

1572(元亀3)義昭は信長の目を盗み毛利輝元と小早川隆景に手紙を送り、讃岐まで兵を出させた。顕如とともに信長包囲網をつくろうとしている。顕如、信玄に使者をやり、その上京を通謀する。信玄、病に伏す。

1573(元亀)顕如は遠江、三河、尾張、美濃4国の門徒に武田軍に加勢せよと指令した。顕如の督促により、義景は2万の兵と再び近江へ出て来た。信玄の病が進み、事情を隠して帰国の途についた。信長はこの報をようやく入手して、上洛した。義昭を二条城に囲み、彼を後押しした上京(かみぎょう)の町を焼き払う。義昭は音を上げた。正親町天皇の取り持ちにより和が成った。信玄は信濃の駒場で死んだ。義昭は、またもや山城の槙島で挙兵した。信長は入京し、槙島を包囲する。義昭は、たまらず城を明け渡す。信長は義昭を追放し、室町幕府は消亡する。

1573(天正1)信長の大軍は近江の朝倉勢の陣を急襲する。義景以下は潰走する。織田軍は越前に侵入し、たちまち朝倉の本拠の一乗谷を陥れた。義景は死に、朝倉氏は滅亡した。越前門徒衆がわずかに抵抗した。信長はその首を際限なくはねた。信長は近江に引き返し、浅井長政を小谷城に攻めた。長政は戦死し、浅井氏も滅亡した。信長は本願寺の加賀領有を認めない。越前から逃げ込む門徒衆を追い、加賀に侵入する。加賀門徒は一転して上杉謙信と組み、織田に当たろうとした。信長はまた長島の討伐にかかる。門徒勢は風雨に乗じて待ち伏せし、信長は危うく岐阜に逃げ帰る。信長と本願寺との対決は石山だけではなかった。信長対全門徒であった。織田信長軍、石山を包囲する。河内を制圧。信長と本願寺が和睦する。

1574(天正2)越前の門徒が一揆を起こす。織田方の北庄と府中(福井県武生・たけふ)を落とす。顕如、大坂周辺の砦を固め、再び決起する。織田勢、石山に寄せる。越前一揆、平泉寺を攻め落とす。信長、7万の大軍で長島を攻める。摂津の中島城を争奪し、織方の荒木村重が惨敗する。長島が壊滅する。信長、門徒衆を皆殺しにする。伊丹城を落とし、有岡と改名して荒木村重を置く。

1575(天正3)信長は10万の大軍で石山に迫る。河内を掃討する。武田勝頼が三河に侵入したとの報に、信長は石山攻撃を中止し、軍を返す。信長が長篠で武田軍に大勝する。信長、3万の軍勢で越前一揆を攻めて壊滅させ、皆殺しにする。羽柴、明智勢が加賀へ乱入する。信長と本願寺がまた和睦する。どちらも相手を信じていない。

1576(天正4)信長が安土山で築城に取りかかる。和議はまた破れる。織田軍が大坂を包囲する。織田軍が総攻撃をかけるが大敗する。信長、先頭に立って逆襲し石山に迫る。毛利輝元が信長との断交を決意する。信長、石山を遠巻きに封鎖する。阿波の安宅氏に毛利水軍の阻止を命ずる。毛利水軍、川口沖で織田水軍に大勝し、米を石山に入れる。

1577(天正5)織田軍が紀州雑賀を攻撃し、鈴木孫市が降伏する。松永久秀が織田方から抜け出し、大和の信貴山城にこもる。鈴木孫市が再起し石山に入る。柴田勝家軍が加賀の手取川で上杉謙信軍に大敗する。信貴山城が落ち。久秀は自決する。秀吉、播磨をほぼ平定。

15788(天正6)謙信、急死。織田軍が石山に寄せ、持久戦となる。織田信長が九鬼嘉隆(よしたか)に命じた鉄船7艘が志摩の鳥羽で完成する。九鬼水軍が和泉淡輪沖で雑賀の水軍を破る。荒木村重が織田信長への叛意を表し、有岡城にこもる。九鬼水軍が鉄船と大筒(大砲)により川口沖で毛利水軍に大勝する。石山への補給路が断たれる。石山、兵糧に窮する。

1579(天正7)村重、逃亡し、有岡城、陥落する。信長、石山に講和に誘う。信長、荒木の者たちを皆殺しにする。

1580(天正8)閏3月、顕如、総赦免、大坂退去の講和条件を受諾する。信長、大坂の封鎖を解く。教如(きょうにょ)、講和を承服せず、門徒に決起を促す。4月、顕如は石山を退去し、紀州鷺森(和歌山市)に着く。教如、石山にこもり、諸国の門徒に檄を発する。柴田勝家軍、金沢御坊を攻略し、加賀の本願寺領有は崩壊。7月、織田軍は花隈(神戸市)、尼崎城に続き、辻、安田の砦を落とした。教如も屈し、講和を申し入れる。織田信長、攻撃中止を命ずる。8月、教如、石山を退去する。本願寺の堂舎から火の手が上がり、寺内町6千戸に燃えひろがる。大伽藍も町も、ことごとく焼亡する。

1582(天正10)織田信長、本能寺で死ぬ。羽柴秀吉、山崎で明智光秀を破る。清洲会議で池田恒興(つねおき)が大坂を領有する。

1583(天正11)秀吉、賎ケ岳に柴田勝家を破る。恒興、秀吉に大坂を明け渡す。大坂城の築城開始。顕如、貝塚に移る。

1584(天正12)秀吉、新築の大坂城内御殿に入る。

1585(天正13)秀吉、関白となる。(本願寺門徒とは和睦)。顕如、大坂天満に造営した本願寺に移る。

1586(天正14)大友宗麟、大坂城に秀吉を訪問して天守に案内され、「三国無双とも申すべく候や」と感嘆する。秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を受ける。

1588(天正16)大坂城の二の丸までの外郭、外堀が完成する。いまの大阪城の規模。

1591(天正19)顕如、京都のいまの西本願寺の地に移る。秀吉、朝鮮出兵。

1592(天正20)顕如、死ぬ。秀吉の裁定で次子の准如(じゅんにょ、12代)が法主を継ぐ。*顕如の死後、長男の教如は12代となるが、1593(文禄2)年、弟の准如を可愛がる母の如春尼(れんしゅんに)が豊臣秀吉に頼んで兄を追放、弟が12代をついだ。教如は徳川家康に近づき関ヶ原の戦い(1600年)後、勢力を取り戻した。その間、彼は1595(文禄4)年、渡辺の地(現中央区道修町1丁目)に大谷本願寺を建立し、1598(慶長3)年、この地に移った。東本願寺が1602(慶長7)年、徳川家康の寄進により京都に建立されるまで、難波別院(東本願寺難波別院、南御堂)は真宗大谷派の本山であった。なお、難波別院の境内には、松尾芭蕉の句碑がある。芭蕉は、1694(元禄7)年10月12日、南御堂前で花を商う花屋仁左衛門の屋敷で51歳の生涯を閉じた。南御堂より約500m北にある津村別院(西本願寺津村別院、北御堂)は、本願寺12代准如が建てたのが始まりである。DSCN3382 DSCN3381 DSCN3380 DSCN3379

1594(文禄3)秀吉、大坂城の三の丸を含む総構えの堀の普請を命ずる。大坂城を淀川、猫間川(ねこまがわ)、空堀、東横堀で囲み、生玉、玉造、渡辺を城下町とし、生玉国社を南に移す。西横堀、天満川、阿波掘を掘り、船場、島の内を開発する。堺、平野、(京都の)伏見の町人を移住させて、商業を盛んにし、青物や魚の市場を開いた。大坂の銀精錬業者を調査し、常是(じょうぜ、銀座)を定める。

1596(文禄5)秀吉、大坂から伏見までの淀川堤防の修築を命ずる。

1598(慶長3)秀吉、伏見城で死ぬ。徳川家康、実権を握る。教如、家康に接近する。

1599(慶長4)豊臣秀頼、大坂城本丸に移る。家康、同西の丸に入る。

1600(慶長5)諸大名、秀頼に次いで家康に年賀。家康、関ヶ原合戦に勝つ。

1612(慶長17)安井道頓、道頓堀の開削を始める。

1614(慶長19)大坂冬の陣。大坂城二の丸、三の丸の堀を埋めるのを条件の講和する。

1615(慶長20)大坂夏の陣。大坂城落城し、炎上する。秀頼、淀君、自殺する。家康、外孫松平忠明に大坂10万石を与える。忠明、天満と高津に寺を集めて寺町にし、墓地を難波村(千日前)に集めた。道頓の遺志を生かし、従弟の道卜に道頓堀を完成させた。京町堀、江戸堀を掘る。大坂の都市計画の基礎を作った。鴻池一族、大坂に出て、酒造業、廻漕業を行う。

1619(元和5)忠明、大和郡山に移され、大坂は幕府直轄地となる。大坂城代を置く。徳川秀忠、大坂城の石垣普請を命ずる。東西町奉行を置く。伏見町人の本格的な大坂移住と町々の成立が始まる。

1624(寛永1)淀屋个庵(こあん)、海部堀川を開き、塩干魚や千鰯類の荷揚場を造る。永代浜、堀の開発が進み、長堀、立売堀(いたちぼり)、薩摩堀が出来た。堂島川や曽根崎川を改修し、堀江川も掘った。大坂の運河の網の目は、元禄までにほぼ完成した。水運がすこぶる便利になった。水の都と呼ばれる。これに多くの橋が架けられ、俗に808橋(実際は164橋)といわれる。幕府の費用で管理される公儀橋が12あった。天満橋、天神橋、難波橋の三大橋のほか、京橋、高麗橋、本町橋、日本橋などがある。河川の開発と共に新地が出来、市街地が広がった。中之島、堂島新地、曽根崎新地、難波新地、四貫島、九条島、市岡新田、勘助島などである。

1629(寛永6)大坂城の徳川天守閣が完成する。

1634(寛永11)徳川家光、大坂城へ来て、大坂の地子銭を免除する。幕府は秀吉の政策を踏襲し、大坂を流通経済の中心に据えた。問屋に特権が与えられた。日本中の物資が集散し、大坂は天下の台所になった。

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雨の大阪

朝から雨が降っていた。午前はチコの抜糸のため、地下鉄御堂筋線「江坂」駅近くの「江坂獣医科病院」に車で連れて行く。チコはいそいそと乗り込んだが、行き先が病院だとわかって、急におろおろしだした。今日はすいていて、大騒ぎにはならなかった。院長先生に諸注意をうけて帰宅した。

午後から東大阪市にある「大阪府立図書館」にでかけた。近鉄・荒本駅なんて、めったに行かないので2時間前に家を出た。約1時間前に着いたので、向かいにある「カルフレーレ」に入った。フランス系のスーパーらしいが、イオン・グループに最近、吸収されたようだ。夏服をいろいろと見たが、結局、「じんべえさん」を買った。

府民講座「再発見・難波の魅力」の第②で、「寺内町から城下町へ」と題する講座だった。講演者は、こちらのテレビや雑誌でおなじみの「大谷晃一」氏。狸みたいな体型の人だと思っていたが、わりとスマートな体型だった。

大阪には、富田林摂津富田八尾市久宝寺貝塚...などの「寺内町」が多くあるので、寺内町の総論的な話かと思っていた。..が、「寺内町」とは今の大阪城の所にあった「大坂本願寺」(=石山本願寺)で、城下町とは大阪城を中心とした江戸時代の大坂の町であることが、しだいにわかってきた。寺内町(じないちょう)とは、聞きなれない人もおられるかもしれないが、戦国時代、畿内とその周辺地域において、一向宗寺院の境内のなかに都市が成立したのである。本来、寺社の境内は宗教的場であるから、参拝などを除き、俗人を入れないのが普通である。したがって通常では大社寺に門前町が成立する。たとえば中世の大坂では四天王寺西門前には町が発展していた。

寺内町は、一向宗がほとんどで、それ以外の宗派で寺内町が成立している例は、摂津・尼崎における日蓮宗の本興寺と長遠寺の寺内町があるにすぎない。さて、寺内町の分布であるが、近畿圏を中心に、東は尾張、北は越中、西は播磨までの間である。今日の講座の寺内町とは、大阪城にあった「大坂本願寺」のことである。大坂本願寺よりは石山本願寺の方がわかりやすいかもしれないが、大坂本願寺の方が正式名称だそうだ。

浄土真宗の祖・親鸞聖人の名は有名で、誕生の地は京都・日野とされている。1月14日の夜、阿弥陀堂前で行われる「日野裸踊」で有名な「法界寺」の東側高台に「日野誕生院」があり、生誕の地とされている。親鸞聖人の死後、一向宗(浄土真宗)は全国の農民に浸透してきたが、親鸞聖人直系の本願寺はその日の食事にもこと欠くほど貧窮なさっておられた。これを復興したのが中興の祖・蓮如(本願寺の8代法主)である。蓮如は、文明11(1479)年、山科本願寺を建立する。「山科本願寺ノ城」とまでいわれたが、天文元(1532)、細川晴元と争い六角定頼と法華宗徒との連合軍の攻撃をうけて焼失、53年間の繁栄を閉じて大坂(石山)本願寺に移った。

それに先立って、明応5(1496)、蓮如は、摂州東成郡(ごおり)生玉荘大坂(おさか)の地に石山御坊を着工する。石山の名は、工事をしている最中に礎石に手ごろな石が出たことから名付けられたようだ。もともとは古墳に使用されていた石だったようだ。蓮如は、石山の地を狐狼の住処と言ったが、ここには、生玉社とその神宮寺としての法安寺があった。生玉神社は、住吉大社・四天王寺・大阪天満宮などとともに人気のある神社だが、現在、天王寺区生玉町に移っている。生玉(生国魂)の名は、大阪城内の門に名を残している。DSCN4269DSCN4271DSCN4274 DSCN4277   DSCN4280 DSCN4281 DSCN4283 DSCN4284

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DSCN3051 「法界寺」の鐘→東側高台=「日野誕生院」がある。また、「法界寺」は、日野薬師とよばれる。

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