大阪城は豊臣秀吉が築城したことで知られるが、その前にいろいろな経過があった。
蓮如が今の大阪城がある辺りを通りかかった時、この地はなんと言うのか?と問うと、「摂州東成郡生玉荘大坂(おさか)」と土地の人が答えたという。蓮如に、次のような和歌がある。
・みな人に弥陀をたのめと夕浪の河おとたててみゆる大さか
・又舟にのりてぞとをるわたなべの磯ぎはとをる大さかの山
・大さかへのぼらんとおもふみちよりも弥陀をたのまん心あるべし
・いくたまのひかりかがやく志ぎ(宣)のもりみちもひろげにみゆる大さか
つまり、「おさか」→「おおさか」と転じたのである。なお、今使われている大阪は、明治以降と聞いている。蓮如以降は、大坂である。
年表
1497(明応6)石山坊舎が出来る。門徒宗が参じ堺などの商人を招き寺内町をつくる。
1524(大永4)三条西実隆が日記に、おさかは本堂は荘厳美麗で町は賑わうと書く。
1532(天文1)山科本願寺が細川晴元、六角定頼、法華宗徒に攻められ焼亡する。10代 法主の証如(しょうにょ)は石山御坊を本願寺とし本山とする。寺内町は新屋敷、北町屋、西町、北町、清水町、南町屋の6町の親町から成る。次第に堀を深くし土居を築き、城塞化する。
1536(天文5)証如は石山6町の構えを巡視する。寺内町は膨張し、横町、檜物屋町、青屋町の枝町3町が出来ている。
1538(天文7)親町6町には、くぎぬきと称する門戸があった。夜は閉められた。門の鍵が本山から各町に渡された。ある程度の自治があった。警察と裁判権は本山にあった。徳政令(=借金は棒引き)は大坂を除外した。
1542(天文11)造作町が出来、10町となった。寺地は拡張し、堀の工事も続く。土倉と呼ぶ質屋や絹屋、油屋、炭屋、餅屋、酒屋、茶屋、薬屋、墨屋、扇屋、そして風呂屋があった。野菜の市が立つ。大工、左官、鍛冶、檜物、曲げ物、土器、染物、桶の職人が住む。
1554(天文23)証如が死に、顕如が11代本願寺法主(ほっしゅ)を継ぐ。
1561(永禄4)織田信長が堺に遊び、途中に石山本願寺を見た。大坂はおよそ日本一の境地なり、と言う。(信長公記)桶狭間の戦いの翌年に当たる。ポルトガル人の宣教師ヴィレラが大坂の様子を報告する。
*(信長公記)抑も大坂は凡そ日本一の境地なり、其子細は奈良、堺、京都に程近く、・・・・江と川とつづひて渺々(びょうびょう)と引きまはし、西は滄海漫々として、日本の地は申すに及ばず、唐土、高麗、南蛮の舟海上に出入り、五畿七道集りて売買利潤富貴の湊(みなと)なり、
*ヴィレラ「耶蘇会士日本通信」諸人の彼(顕如)に与うる金銭甚だ多く、日本の富の大部分はこの坊主の所有なり。毎年甚だ盛んなる祭り(報恩講)を行い、参集する者甚だ多く、寺に入らんとするが故に常に多数の死者を出す。しかもこの際、死することを幸福と考え、故意に門内に倒れ、多数の圧力によりて死せんとする者あり。夜に入りて坊主彼らに向かいて説教をなせば庶民多く涙を流す。
1562(永禄5)寺内町で火事があり、2千軒余を焼失する。
1564(永禄7)ポルトガル人の宣教師フロイスが大坂で大火に会う。法安寺から火が出て御堂が殆ど焼失した。寺内町にも移り、9百戸が燃えた。生きながらに100人が死んだ。(フロイス日本史)御堂は再建されて手狭になり、法安寺は南の丘に移ってもらう。
1568(永禄11)信長、足利義昭を奉じて入京。義昭、将軍となる。信長、矢銭(やせん・軍用金)を課す。堺は拒否し、本願寺は応諾する。5千貫文=8億5千万円。
1569(永禄12)三好三人衆が京に義昭を襲うが、破れて阿波へ逃げる。信長、堺を脅迫し、堺は屈する。尼崎が矢銭を拒み、信長がこれを焼き払う。信長と義昭が衝突する。信長、本願寺に詰問状を発する。
1570(永禄13)信長、本願寺に石山退去を命ずる。本願寺顕如は拒否する。信長、朝倉義景を攻めるが、背後で浅井長政が挙兵する。信長は辛くも逃れる。信長、近江姉川に浅井・朝倉連合軍を破る。
1570(元亀1)三好三人衆が大坂に上陸し、野田と福島に砦を構えた。信長、大挙して石山を含む大坂を包囲し、三好方に総攻撃をかける。顕如は浅井と朝倉と門徒の連合軍が近江で行動を起こしたとの注進を得て、織田軍への攻撃に立ち上がる。石山合戦始まる。織田は苦戦に陥る。信長、転進を命ずる。京へ帰り、浅井・朝倉軍を叡山に包囲したが、和睦する。
1571(元亀2)信長、長島の門徒を攻撃したが、大敗北を喫する。信玄が西上する。信長に降っていた松永久秀が寝返り、信玄に通じる。信長、叡山を焼き討ちする。顕如、浅井や朝倉に手紙を送り激励する。
1572(元亀3)義昭は信長の目を盗み毛利輝元と小早川隆景に手紙を送り、讃岐まで兵を出させた。顕如とともに信長包囲網をつくろうとしている。顕如、信玄に使者をやり、その上京を通謀する。信玄、病に伏す。
1573(元亀)顕如は遠江、三河、尾張、美濃4国の門徒に武田軍に加勢せよと指令した。顕如の督促により、義景は2万の兵と再び近江へ出て来た。信玄の病が進み、事情を隠して帰国の途についた。信長はこの報をようやく入手して、上洛した。義昭を二条城に囲み、彼を後押しした上京(かみぎょう)の町を焼き払う。義昭は音を上げた。正親町天皇の取り持ちにより和が成った。信玄は信濃の駒場で死んだ。義昭は、またもや山城の槙島で挙兵した。信長は入京し、槙島を包囲する。義昭は、たまらず城を明け渡す。信長は義昭を追放し、室町幕府は消亡する。
1573(天正1)信長の大軍は近江の朝倉勢の陣を急襲する。義景以下は潰走する。織田軍は越前に侵入し、たちまち朝倉の本拠の一乗谷を陥れた。義景は死に、朝倉氏は滅亡した。越前門徒衆がわずかに抵抗した。信長はその首を際限なくはねた。信長は近江に引き返し、浅井長政を小谷城に攻めた。長政は戦死し、浅井氏も滅亡した。信長は本願寺の加賀領有を認めない。越前から逃げ込む門徒衆を追い、加賀に侵入する。加賀門徒は一転して上杉謙信と組み、織田に当たろうとした。信長はまた長島の討伐にかかる。門徒勢は風雨に乗じて待ち伏せし、信長は危うく岐阜に逃げ帰る。信長と本願寺との対決は石山だけではなかった。信長対全門徒であった。織田信長軍、石山を包囲する。河内を制圧。信長と本願寺が和睦する。
1574(天正2)越前の門徒が一揆を起こす。織田方の北庄と府中(福井県武生・たけふ)を落とす。顕如、大坂周辺の砦を固め、再び決起する。織田勢、石山に寄せる。越前一揆、平泉寺を攻め落とす。信長、7万の大軍で長島を攻める。摂津の中島城を争奪し、織方の荒木村重が惨敗する。長島が壊滅する。信長、門徒衆を皆殺しにする。伊丹城を落とし、有岡と改名して荒木村重を置く。
1575(天正3)信長は10万の大軍で石山に迫る。河内を掃討する。武田勝頼が三河に侵入したとの報に、信長は石山攻撃を中止し、軍を返す。信長が長篠で武田軍に大勝する。信長、3万の軍勢で越前一揆を攻めて壊滅させ、皆殺しにする。羽柴、明智勢が加賀へ乱入する。信長と本願寺がまた和睦する。どちらも相手を信じていない。
1576(天正4)信長が安土山で築城に取りかかる。和議はまた破れる。織田軍が大坂を包囲する。織田軍が総攻撃をかけるが大敗する。信長、先頭に立って逆襲し石山に迫る。毛利輝元が信長との断交を決意する。信長、石山を遠巻きに封鎖する。阿波の安宅氏に毛利水軍の阻止を命ずる。毛利水軍、川口沖で織田水軍に大勝し、米を石山に入れる。
1577(天正5)織田軍が紀州雑賀を攻撃し、鈴木孫市が降伏する。松永久秀が織田方から抜け出し、大和の信貴山城にこもる。鈴木孫市が再起し石山に入る。柴田勝家軍が加賀の手取川で上杉謙信軍に大敗する。信貴山城が落ち。久秀は自決する。秀吉、播磨をほぼ平定。
15788(天正6)謙信、急死。織田軍が石山に寄せ、持久戦となる。織田信長が九鬼嘉隆(よしたか)に命じた鉄船7艘が志摩の鳥羽で完成する。九鬼水軍が和泉淡輪沖で雑賀の水軍を破る。荒木村重が織田信長への叛意を表し、有岡城にこもる。九鬼水軍が鉄船と大筒(大砲)により川口沖で毛利水軍に大勝する。石山への補給路が断たれる。石山、兵糧に窮する。
1579(天正7)村重、逃亡し、有岡城、陥落する。信長、石山に講和に誘う。信長、荒木の者たちを皆殺しにする。
1580(天正8)閏3月、顕如、総赦免、大坂退去の講和条件を受諾する。信長、大坂の封鎖を解く。教如(きょうにょ)、講和を承服せず、門徒に決起を促す。4月、顕如は石山を退去し、紀州鷺森(和歌山市)に着く。教如、石山にこもり、諸国の門徒に檄を発する。柴田勝家軍、金沢御坊を攻略し、加賀の本願寺領有は崩壊。7月、織田軍は花隈(神戸市)、尼崎城に続き、辻、安田の砦を落とした。教如も屈し、講和を申し入れる。織田信長、攻撃中止を命ずる。8月、教如、石山を退去する。本願寺の堂舎から火の手が上がり、寺内町6千戸に燃えひろがる。大伽藍も町も、ことごとく焼亡する。
1582(天正10)織田信長、本能寺で死ぬ。羽柴秀吉、山崎で明智光秀を破る。清洲会議で池田恒興(つねおき)が大坂を領有する。
1583(天正11)秀吉、賎ケ岳に柴田勝家を破る。恒興、秀吉に大坂を明け渡す。大坂城の築城開始。顕如、貝塚に移る。
1584(天正12)秀吉、新築の大坂城内御殿に入る。
1585(天正13)秀吉、関白となる。(本願寺門徒とは和睦)。顕如、大坂天満に造営した本願寺に移る。
1586(天正14)大友宗麟、大坂城に秀吉を訪問して天守に案内され、「三国無双とも申すべく候や」と感嘆する。秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を受ける。
1588(天正16)大坂城の二の丸までの外郭、外堀が完成する。いまの大阪城の規模。
1591(天正19)顕如、京都のいまの西本願寺の地に移る。秀吉、朝鮮出兵。
1592(天正20)顕如、死ぬ。秀吉の裁定で次子の准如(じゅんにょ、12代)が法主を継ぐ。*顕如の死後、長男の教如は12代となるが、1593(文禄2)年、弟の准如を可愛がる母の如春尼(れんしゅんに)が豊臣秀吉に頼んで兄を追放、弟が12代をついだ。教如は徳川家康に近づき関ヶ原の戦い(1600年)後、勢力を取り戻した。その間、彼は1595(文禄4)年、渡辺の地(現中央区道修町1丁目)に大谷本願寺を建立し、1598(慶長3)年、この地に移った。東本願寺が1602(慶長7)年、徳川家康の寄進により京都に建立されるまで、難波別院(東本願寺難波別院、南御堂)は真宗大谷派の本山であった。なお、難波別院の境内には、松尾芭蕉の句碑がある。芭蕉は、1694(元禄7)年10月12日、南御堂前で花を商う花屋仁左衛門の屋敷で51歳の生涯を閉じた。南御堂より約500m北にある津村別院(西本願寺津村別院、北御堂)は、本願寺12代准如が建てたのが始まりである。
1594(文禄3)秀吉、大坂城の三の丸を含む総構えの堀の普請を命ずる。大坂城を淀川、猫間川(ねこまがわ)、空堀、東横堀で囲み、生玉、玉造、渡辺を城下町とし、生玉国社を南に移す。西横堀、天満川、阿波掘を掘り、船場、島の内を開発する。堺、平野、(京都の)伏見の町人を移住させて、商業を盛んにし、青物や魚の市場を開いた。大坂の銀精錬業者を調査し、常是(じょうぜ、銀座)を定める。
1596(文禄5)秀吉、大坂から伏見までの淀川堤防の修築を命ずる。
1598(慶長3)秀吉、伏見城で死ぬ。徳川家康、実権を握る。教如、家康に接近する。
1599(慶長4)豊臣秀頼、大坂城本丸に移る。家康、同西の丸に入る。
1600(慶長5)諸大名、秀頼に次いで家康に年賀。家康、関ヶ原合戦に勝つ。
1612(慶長17)安井道頓、道頓堀の開削を始める。
1614(慶長19)大坂冬の陣。大坂城二の丸、三の丸の堀を埋めるのを条件の講和する。
1615(慶長20)大坂夏の陣。大坂城落城し、炎上する。秀頼、淀君、自殺する。家康、外孫松平忠明に大坂10万石を与える。忠明、天満と高津に寺を集めて寺町にし、墓地を難波村(千日前)に集めた。道頓の遺志を生かし、従弟の道卜に道頓堀を完成させた。京町堀、江戸堀を掘る。大坂の都市計画の基礎を作った。鴻池一族、大坂に出て、酒造業、廻漕業を行う。
1619(元和5)忠明、大和郡山に移され、大坂は幕府直轄地となる。大坂城代を置く。徳川秀忠、大坂城の石垣普請を命ずる。東西町奉行を置く。伏見町人の本格的な大坂移住と町々の成立が始まる。
1624(寛永1)淀屋个庵(こあん)、海部堀川を開き、塩干魚や千鰯類の荷揚場を造る。永代浜、堀の開発が進み、長堀、立売堀(いたちぼり)、薩摩堀が出来た。堂島川や曽根崎川を改修し、堀江川も掘った。大坂の運河の網の目は、元禄までにほぼ完成した。水運がすこぶる便利になった。水の都と呼ばれる。これに多くの橋が架けられ、俗に808橋(実際は164橋)といわれる。幕府の費用で管理される公儀橋が12あった。天満橋、天神橋、難波橋の三大橋のほか、京橋、高麗橋、本町橋、日本橋などがある。河川の開発と共に新地が出来、市街地が広がった。中之島、堂島新地、曽根崎新地、難波新地、四貫島、九条島、市岡新田、勘助島などである。
1629(寛永6)大坂城の徳川天守閣が完成する。
1634(寛永11)徳川家光、大坂城へ来て、大坂の地子銭を免除する。幕府は秀吉の政策を踏襲し、大坂を流通経済の中心に据えた。問屋に特権が与えられた。日本中の物資が集散し、大坂は天下の台所になった。
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