チコ
チコは、家で飼っている犬の名前です。メスで、シェルティー(コリーを小さくしたような感じ)です。子どもの時の人気テレビ番組に「ラッシー」があって、チコを見ると思い出します。
(大阪府)高槻市に住んでいた頃は、柴犬のクウちゃんと猫の「みーこ(オス)」を飼っていました。クウちゃんは、賢い犬ではありませんでしたが、けなげで、死に際はとてもいじらしかったです。お墓は、高槻の「しょうぶ園」近くにあります。高槻というより、もう(京都府)亀岡です。「みーこ」は、京都の木屋町の(スナックの)マスターに、「飼えないから、もらってくれ」と頼まれました。ヒマラヤンのシルバーで、もらった当時は小さくてものすごく可愛かったです。あれよあれよという間に大きくなって、狸みたいになってしまいました。嫁さんに、よく叱られていました。2匹が死んで、もうペットは飼わないと思っていましたが、子どもにねばられて、飼うことにしました。阪神大震災の後、家に来たので、9年目になると思いますが、私が入院と同時に、チコも「江坂病院」に緊急入院となりました。子宮が腐っていたようで摘出しました。その他にも、胆石とかいろいろな病状があったようです。今日退院です。
頼政
作者:世阿弥{二番目物(老武者物)}
登場人物=ワキ・旅の僧、前シテ・老人、アイ・所の者、後シテ・頼政の霊
宇治平等院の赤門を入ってすぐ左の観音堂。そのわきに三角形の土の壇がある。八百余年前、平清盛に反旗をひるがえして敗れ、ここに軍扇をしいて自刃して果てた源三位頼政。「扇の芝」といわれる。ここからは極楽浄土をこの世に現出させたとまで言われた鳳凰堂(国宝・十円銅貨のデザイン)が近い。だが鳳凰堂の庭前を血で染めたくなかったのか「扇の芝」で 皺腹をかっさばいたのだった。七十五歳だった。
「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果ては哀れなりけり」(辞世の歌)
歴史の半歩手前を行く人には過酷な運命が待ち受ける。頼政の死後、源氏勢の全国的な挙兵。翌年の清盛の死に続き、おごる平家の滅亡があった。能「頼政」は時代の大きな背景を踏まえて接する時、頼政の無念、この世への凄まじい執念が鮮烈に迫ってくる。
名乗り笛で旅の僧が登場、奈良に向かう途中、伏見稲荷、深草、木幡を経て宇治の里に着いた。掲幕から前シテの老人が旅の僧に声を掛けて登場、旅の僧により宇治の名所が語られ、喜撰法師の有名な「わが庵は 都の巽(たつみ) しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり」などが優雅に歌われる。老人は宇治平等院に旅の僧を連れて行くのだが「扇 の芝」の前で「ここは頼政が宮戦(みやいくさ)に敗れて自害した場所。名武将を偲んで‘扇の芝‘と呼ばれるが、頼政自害はちょうど今月の今日にあたる」と自分こそ、その頼政の幽霊と示唆して中入りする。
八百余年前の治承4年(1180)5月26日。前年には僧俊寛が鬼界が島(鹿児島県南海上の硫黄島)で流刑死、後白河法皇は清盛に幽閉されている。「平家にあらずんば人にあらず」の時代。それだけに平家の権力腐敗を恨む声が都に満ちていた。
頼政は源氏の正系だが中立を守り、公卿として宮中に昇殿を許されていた。静かな老後が約束されていたかに見えたが、後白河法皇の第二子、以仁王(もちひとおう・高倉宮)と謀って、平家追討の令旨を全国に出させ、クーデターに踏み切った。ただちに敵に情報が伝わり、大津三井寺に立て籠もり、比叡山延暦寺と奈良興福寺の援軍をたのむが、延暦寺はもともと三井寺とは仲が悪く清盛に懐柔されていた。奈良へ落ち延びる途中、二万八千の平家の大軍に宇治橋で追いつかれ壮絶な「橋合戦」となる。だが、雀に襲いかかる鷹、敵は二十倍以上の物量作戦であった。
頼政は扇の芝で自刃、以仁王は光明山の鳥居前で弓にうたれ首を切り落とされた。興福寺の僧兵ら七千の援軍が木津にまで達していたが、王の戦死を知り、奈良に引き戻った。
一声の囃子で後シテ頼政の霊が法体に甲冑姿で登場する。この能だけに使われる「頼政
の面」はこの世への限りない執着と悲憤が表情に凝縮しているかのようだ。目には「あやかしの金」の金属をはめこんでいるが、これは「怨霊の目」である。
頼政は橋合戦のありさまを鮮やかに語る。床几に腰を下ろし、ある時は合戦の指揮官、ある時は両軍の攻めぎ合いの観察者といった風情で足拍子を激しく踏み続ける。味方の敗色濃く、最後の一戦に討って出る時は立ち上がり脇座前で激しく大刀を振り下ろす。
この能「頼政」は「負修羅物」だが、修羅の苦患を語るより頼政のこの世への執着を描く。老体ながら一国の政治転覆に決起した武将の気概と風格も忘れない。
「平家物語」はこのクーデターに味方した三井寺の焼き討ち(橋合戦の翌日)、興福寺・東大寺の焼亡(12月28日)を伝えるが、その勝者平家もやがて壇ノ浦に滅亡する。
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