渚の院26
中納言家成なぎさの院したてて 程なくこぼれたれぬと聞て、天王寺より下向しけるつゐでに、西住、浄蓮など中上人ともして見けるに、いとあはれにて、各々述懐しけるに、
折につけて人の心もかはりつつ世にあるかひもなぎさなりけり (『西行上人集』)
←島本町立歴史文化資料館内。
ー伊勢物語・八十二段、渚の院ー
むかし、惟喬(これたか)の親王(みこ)と申すみこおはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬(みなせ)といふ所に、宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬の頭(かみ)なりける人を、常に率(ゐ)ておはしましけり。時世経(へ)て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りて、かざしにさして、かみ、なか、しも、みな歌よみけり。馬の頭(かみ)なりける人のよめる。
世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし
となむよみたりける。
(訳)昔、惟高の親王と申し上げる親王がおいでになった。山崎の向こう、水無瀬(みなせ)という所に、離宮があった。毎年の桜の花盛りには、その離宮へおいでになったのだった。その時、右の馬の頭(かみ)であった人を、いつも連れておいでになった。いまでは、だいぶん時がたったので、その人の名は忘れてしまった。鷹狩はそう熱心にしないで、もっぱら酒を飲んでは、和歌を詠むのに熱をいれていた。いま鷹狩をする交野の渚の家、その院の桜がとりわけ趣がある。その桜の木のもとに馬から下りて、桜の枝を折り、髪の飾りに挿して、上、中、下の人々がみな、歌を詠んだ。馬の頭(かみ)だった人が詠んだ。それは、
世の中に・・・・・(世の中に桜がまったくなかったならば、惜しい花が散りはせぬかと心を悩ませることもなく、春をめでる人の心は、のどかなことでありましょう)
と詠んだのだった。
※惟喬親王(844~97)は文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎の女静子。静子の兄有常の女は、業平の妻である。文徳天皇の第四皇子惟仁(これひと)親王(清和天皇)は藤原明子(染殿后)を母とし、天安二年(858)即位。惟喬親王は貞観十四年(872)七月、二十九歳で出家した。 ※山崎=京都府乙訓(おとくに)郡大山崎村。淀川の西岸に当る。「水無瀬」は京からいえば、山崎の向こうになる地。大阪府三島郡島本町広瀬辺り。
■柏原(かしはら)市立歴史資料館・・・7月に大阪教育センターに行くと、「1400年前の大和川」と題したチラシがあった。「遣隋使・はいせいせいの来朝から1400年、はいせいせいらは、どのように飛鳥へ向かったのか」。大和川を遡って飛鳥へ向かったのだ。
■京街道(京都ー奈良)②
平城京の東京極(ひがしきょうごく)大路から山城国木津(きづ)へむかう京街道は、平城京の中央から北にのびる歌姫越えとともに山城(やましろ)に通じる主要街道で、般若寺の前を通って丘陵、平城山(ならやま)を越えるため般若寺坂、あるいは奈良坂ともよばれてきた。東大寺建立の際には大量の木材が木津で陸揚げされ、この奈良坂を経て現地に運ばれたという。都が平安京に移されてからは、東大寺や興福寺など奈良の社寺に詣でる人々が行き交うようになった。いっぽう、このあたりは交通の要地であったため、古くから合戦の舞台となることも多く、1180(治承4)年平重衡(たいらのしげひら)の軍勢がおし寄せたときには、般若寺が南都防衛の拠点となったともいわれている。
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