新平家物語六巻冬眠の国⑬
捨てはてて身はなきものとおもひしも雪の降る日は寒くこそあれ(西行)
「いったい、それらのお人は、どこへ隠れてしまったものでございましょうなあ。・・・・主なる御一門は、屋島や壇ノ浦と、その果ても分かっておりますが、かかる僻地(へきち)にいて、なんの関わりもないほどな、平家の末のすえに過ぎぬお人たちは」 宿のあるじとか、ふと、休息をともにした行きずりの旅人などに、西行が不審をただすと、どこの土地でも、答える者のことばは一つであった。 「--あれ御覧なされ。越後、信濃の山波の奥のおく、白雲のかかっている辺に、みんな逃げ込んでしまいなされた。さあ、これから源氏の世だぞと、どこの庄へも、守護や地頭の兵が、あのおり、なだれ込んで来ましたからな」。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 完
■役行者霊蹟札所めぐり⑯(千光寺・せんこうじ、奈良県生駒郡平群郡鳴川188)
枚岡神社の枚岡は、古くは平岡とも書いた。奈良県の春日大社は和銅年間(708~715)に枚岡神社の天児屋根命と比売大神とを勧請した神社であったため、当社は元春日平岡大社と称され、中臣(藤原)氏の繁栄とともにいっそう尊崇された。859(貞観元)年、正一位を贈られ、1871(明治4)年、官幣(かんぺい)大社となった。明治まで神官は中臣氏の子孫という水走(みずはや)氏が代々つとめた。
■七夕伝説・・・(大阪府)枚方市と交野市一帯は、古くは「交野が原」と呼ばれ、七夕伝説発祥の地として知られています。⑨
御神体の岩は横18m・高さ12mもあり、その前に岩を背負うようにして社殿が建つ。岩の上部には「加藤肥後守(ひごのかみ)清正」と彫られ、大坂城築城の際搬出を試みた名残という。
岩窟めぐりの出口をでたら、御神体の前に出る。
■「対決ー巨匠たちの日本美術」-東京国立博物館
←伊藤若沖の群鶏図(西福寺蔵)。西福寺(大阪府豊中市小曽根・おぞね)は、自宅(吹田市)から自転車で12,3分の場所にある。若沖は晩年、京都で火災に合い、家財道具一切を失った。意気消沈している若沖を励ましたのが、大坂の薬種商吉野寛斎(よしのかんさい)。75歳の若沖が西福寺に滞在し、半年かけて描きあげた。
「美術研究誌『国華』の創刊120年を記念し、斬新かつ簡潔な視点で日本美術史を見渡すことはできないかと・・企画された。どれもが目玉になる作品で、見逃せない。 会期は、7月8日から8月17日まで。
| 固定リンク





コメント